曾良を尋ねて(96)             乾佐知子

─ 象潟と「みのの国の商人 低耳 」─

  6月3日に出羽の三山を参詣した二人は13日に鶴岡から舟で酒田の湊へ出た。翌日、手広く廻船問屋を営む寺島彦助邸で他四人の豪商達と連句の会を興行している。

 15日、活気ある酒田を後に歌枕の地として有名な象潟へと向かう。ここは西行の来遊したと伝えられる風光の地で神功皇后ゆかりの干満寺がある。例の如く『細道』では芭蕉の流麗な文章がつづられているが、最後の五句に注目したい。

(前略)松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢、魂を悩ますに似たり。

象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴はぎ濡れて海涼し
象潟や料理何くふ神祭曾良
蜑の家や戸板を敷きて夕涼みのの国の商人  低耳
波こえぬ契ありてやみさごの巣曾良

 この五句を見た時に奇妙なことに気付かれたと思う。四句目の(みのの国の商人 低耳)なる者の出現である。
 曾良の『随行日記』によれば17日の条に「弥三郎低耳、16日に跡より追来て、所々へ随身す」とある。几帳面な曾良が当日の16日でなく翌日に、しかも最後につけ足すかのように一行だけ簡単に記している。
 『奥の細道』に記された句は、芭蕉五十句、曾良の句が十一句、そしてこの低耳の一句の計六十二句である。何故この低耳の句が入っているのか。どうしても入れたいというほどの名句とも思えぬのだが。
 しかしこの後の低耳の行動を見れば、その理由がはっきりするのである。
 低耳の本名は宮部弥三郎。美濃国長良の商人というが、実態は大垣藩に出入りし何らかの命を受けて動いている人物と思われる。その根拠は二人が25日に酒田を発つときには見送りに来ており、足掛け10日もの間同行していること。その上に、二人が今後の行程に必要な旅先の宿を四軒も紹介しているのだ。
 光田和伸氏も述べているように、ここ象潟は日本海側最北端の地であり低耳は初めから、酒田辺りで二人を待っていたのではないか。今迄太平洋岸のサポートをしていた水戸藩や他の近隣大名に代り、これからは大垣藩が引き継いでいきますよ、ということであろう。
 十日もの間同行した、ということは今後の道中の段取りについて打ち合わせをしていたと思われる。
 低耳が紹介したという四軒の宿は、いずれも宿の主人や関係者がそうした仕事に協力している、いわゆるつなぎの宿としての機能を果たしていると思われる。連絡を受けて落会った客同士が情報を交換する場所であり、その為には連句の会は重要な役割を持っていた。
 以前『細道』に出発する前に江戸で大垣藩の連衆と三回も句会をもっていたことを伝えたが、この句は低耳のことを報告するための暗号だったのではないかと推測するのである。