「耕人集」 七月号 感想   沖山吉和

春愁やオルゴールの螺子巻いてみる菊地惠子

抽象的な概念の季語と具体的な行動との取り合わせの句である。物憂い作者の内面が、このような「螺子巻いてみる」という目的のない行動を誘発するのであるが、ここに作者の心情がよく表現されていて、読者を納得させる。
中七が字余りの八音になっている。しかし、気を付けて読まないとそれがわからないくらいにリズムに違和感がない。繊細な感性の持ち主であることを感じさせる句である。

ぼうたんの散りて華やぐ日のさかり 大原久子

一句の眼目は「散りて華やぐ」にある。咲いている牡丹の花そのものの華やかさを詠った句は少なくない。この句の特徴は、焦点が散った牡丹の花びらに置かれている点にある。作者のこの着眼がよい。
花びらは、「華やぐ」から推測するに一色だけではなく、複数の色だったのではないか。盛りを過ぎた牡丹が重なるようにして真昼間の明るい日差しの下に散り敷いている様子が想像できる。揺るぎない俳句観のある句である。

添削の助詞に思案の目借時平照子

「に」にするか「へ」にするかというようなたった一字か二字の助詞の問題なのであろう。どちらにするかその微妙な表現に作者自身が悩んでいる。俳人であるならば当然多くの人が経験するであろうことであるが、それをあえて句の題材として取り上げた作者の感覚が素晴らしい。句も平明に徹している。
「添削」については、一般的には他人の詩文を直す場合について用いるように理解されている。しかし、辞書によっては「詩歌・文章・答案などを、書き加えたり削ったりして改め直すこと」(広辞苑)という説明もなされている。ここは広く解釈したい。

初燕馴染みのやうに庫裡に入る上野邦治

燕がコンビニのセンサーをうまく使って店内に巣を作り、子育てをしている映像を以前見たことがある。燕はなかなか賢い鳥で、どうすれば鴉などの天敵から雛を守ることができるかを考えて行動する。
掲句の燕も、餌をとるために庫裡に入ったのではなく、巣作りの下見で入ったのではないかと想像する。それだけでなく、「馴染みのやうに」から、以前から庫裡で巣作りしていたであろうことも考えられる。作者も一瞬目にした光景から、さまざまなことに想像を広げながら詠んだ句なのであろう。実感と表現のバランスが見事である。

古民家の土間へ駆け込む花の雨舘岡靖子

作者は意図してこのような行動をとったのではないのであろう。しかし、とっさの判断の結果としてこのような花鳥諷詠に徹した、しゃれた一句としてまとまったのである。
場所としては、古民家園などのある広い公園などが想像される。あやしい雲行きであったが、とうとう本格的に降り出してきてしまった。傘も用意してない。満開の桜はさておき、ここはひとまず逃げるほかはあるまいと、近くの古民家に駆け込む作者。深廂の縁側に腰かけて眺め直す桜もまた格別であったであろう。

遠近の山の静けさ余花の里小林淑子

「遠近」は「おちこち」と読むのであろう。周りを山並みに取り囲まれた静かな山里を歩く作者の姿が想像できる。
余花は夏の季語である。初夏になってもまだ若葉の中に咲き残っている桜の花のことである。春の桜のような華やかさはなく、どこかものさびしい響きがある。加えて静まり返った山里。わざわざ余花を見に行ったのではなく、たまたま目にした光景なのであろう。作者は静かに己の心との対話を繰り返す。

飾り馬重たく着くや春祭野尻千絵

胸懸、面懸、唐鞍など華やかに飾られた、訓練された祭馬なのであろう。馬が歩むごとに鳴る鈴。その馬が祭のメイン会場にようやく着いた。「重たく着く」という感覚的な表現に作者の工夫が凝縮されている。
待ち受けていた沢山の観衆のどよめきや歓声が聞こえてくる。祭馬と観衆との一体感が素晴らしい。祭はまさにクライマックスを迎える。

義経藤白き房より吐息もれ島田閏江

同じ7月号に同じ作者の〈弁慶藤風に遊ばる長き房〉の句がある。義経藤、弁慶藤のある藤沢市の白旗神社での作であろうか。兄頼朝に追われ奥州へと逃げ延び、哀れな最期を遂げた義経の人生を彷彿とさせる句である。また、弁慶藤の句には、義経と最期をともにした弁慶のその運命のいたずらのようなものも感じられる。いずれにせよ境内に義経藤と弁慶藤とが植えられているというのも興味深い。
作者の閏江さんは、すみれ愛好家として春耕でもその名が知れ渡っている。閏江さんや沢ふみ江さんらが中心となって、毎月名所旧跡を訪ねて吟行をするユニークな句会、「すみれ句会」というのが春耕にある。春耕誌の巻末の「句会報」にはその「すみれ句会」の参加者各人の代表句が掲載されている。他の句会の作品ともあわせてご覧いただくとよい。

宙へ浮く刹那響動めく荒神輿 畑宵村

わっしょいわっしょいと大声を上げながら、大勢の担ぎ手が神輿を揉んだ時の句である。「宙へ浮く」からその荒神輿の勢いの激しさが想像できる。
「響動めく」は「どよめく」と読む。響動めいているのは荒神輿を取り囲むかのようにして眺めている観衆である。作者も毎年のことながら、その荒々しさにはらはらしつつ祭を楽しんでいるのである。「宙へ浮く刹那」とほんの一瞬の光景を切り取っただけなのに、祭を楽しむ人たちの様子や祭全体の雰囲気までもが伝わってくる句である。

朧夜や花麩の開く朱塗椀池尾節子

朧夜、花麩、朱塗椀と感覚的、視覚的に美しい語が並ぶ。そして、その中には、「花麩の開く」という静かな動きもある。まるで計算しつくされたように作者は異空間を作り出している。見事な感覚の句である。写生の句のようでありながら、叙情の句である。
同じ7月号に同じ作者の〈花過ぎの手足重たき厨事〉という作品がある。この句も、華やかな桜の時期が終わって、本格的な春が到来したころの季節の感覚である。いずれの句も繊細な感覚を丹念に表現している佳句である