コラム「はいかい漫遊漫歩」  松谷富彦

 

第42話 なまはげのくらい残しや雪の春   釈超空

掲題句は、釈超空の雅号を持つ歌人で民俗学者、国文学者の折口信夫が唯一の女弟子、穂積生萩に「生萩」の号を贈ったときの“添え句”である。宗教学者、山折哲雄と生萩が1995年に折口信夫の口癖だった「執深くあれ」を主題に行った対談から引く。(単行本『執ふかくあれ』小学館刊)

山折 それは秋田の「なまはげ」からきているわけですね。

穂積 そうです。先生(折口)は私のことを「男鹿の嵐が来よった」とか、「なまはげが来とった」とかいってました。(註:生萩は秋田の旧家出身)

…先生は句をくださって「あんたはなまはげじゃありません。なまはげがあんたのような恐ろしい子なんか食いません。なまはげの食い残しにきまっています」…。

山折 可愛くてかわいくて仕方なく、恐れるふりをしたり、いじめたり…。

折口の死後、国文学者、加藤守雄が、門弟仲間の池田弥三郎に勧められて刊行した『わが師折口信夫』(文芸春秋刊、後に朝日文庫)で〈 森蘭丸は織田信長に愛されたということで、歴史に名が残った。君だって折口信夫に愛された男として、名前が残ればいいではないか〉と同衾を迫られたことを暴露、同性愛者折口が、門弟外にも知られることになった。

同性愛者暴露で加藤が門弟仲間から閉め出されることはなかったが、その11年後に講談社から出た穂積生萩著『私の折口信夫』は、「折口信夫に四十歳も若い歌人の女弟子がいた」ということで大反響を呼ぶ。各新聞の文芸欄は師の心の深層にまで及ぶ見事な文章に拍手を送り、ベストセラー間違いなし、と見られた。だが、講談社版も、その後に出た中公文庫版も店頭から姿を消す。折口側近だった慶大名物教授、池田弥三郎の逆鱗に触れたのだ。性を超えた濃密な愛が師と女弟子の間で育まれていたことを知らなかった故の激怒だった。(敬称略)

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり  超空
こりこりと乾きし音や 味もなき師のおん骨を食べたてまつる   生萩

(筆者註:穂積生萩さんは、今年90歳でご健在)

 

第43話 しあはせは玉葱の芽のうすみどり  扇橋(俳号光石)

平成28年7月は、9代目入船亭扇橋師の一周忌。扇橋さんは昭和44年にスタートした東京やなぎ句会の宗匠を平成27年に84歳で亡くなるまで続けた。 “題出し ”役を人柄そのままに飄々黙々と務めた。

本業では、三代目桂三木助に弟子入り、師匠没後は五代目柳家小さんの元で腕を磨いた古典落語の実力者。「狸賽」「火事息子」「文七元結」などを得意とし、文化庁芸術祭優秀賞も受賞。芸に厳しい六代目三遊亭圓生は、落語協会会長在任中、六代目三遊亭圓窓、十代目柳家小三治そして九代目入船亭扇橋の3人しか真打昇進を許さなかった。門下ではない扇橋さん(当時は二つ目柳家さん八)には目をかけて、稽古を付け、かわいがったのは有名。

扇橋さんの俳句歴は、中学時代、担任の先生の影響で始め、下町の俳人だった2人の伯父さんにも勧められて、高校生になると当時、水原秋櫻子が選者をしていた「毎日俳壇」に毎日毎日5句ずつ投稿を始めた。

〈 水原先生たちがやってる「馬酔木」にも投句しました。例会があるというのを聴いて、丸の内の会場まで行ったことがありました。イガグリ頭、金ボタンの学生服で行ったのはあたしだけ。石田波郷とか篠田悌二郎なんて人たちがいて、みんなが2句ずつ出すんです。秋桜子先生が、全句、講評。あの先生は、洒落が好きな人で、けっこう笑わすんですよ。あたしの名前は先生に憶えられてたみたいで、「この子は末恐ろしい人で、毎日うちへ5句ずつ投稿してくる」って紹介されちゃった。この時、賞に入ったりしたんで、またまた俳句に夢中になっちゃてました。〉(『噺家途世 扇橋百景』うなぎ書房刊より)

平成2年に190句とエッセーなどからなる『扇橋歳時記』(新しい芸能研究室刊)を出す。サブタイトルが掲題句だ。〈 如月の松ならびをり堀の影 〉〈 蕗の薹ながるる水の音をきき〉〈 ふるさとは風の中なる寒椿 〉〈寄席の木戸あいて春めく日なりけり 〉