コラム「はいかい漫遊漫歩」  松谷富彦

第46話 遊女俳人 豊田屋哥川

加賀千代女(1703-1775)、谷口田女(1713-1779)、豊田屋哥川(1716-1776)は、江戸時代中期に加賀、江戸、越前にあって、ほぼ同時期に活躍した女流俳人。〈 朝顔に釣瓶取られてもらひ水 〉の千代女の名を知らぬ人はいないだろうが、さて後の二人を知っている人となると俳諧史好きの俳人に限られるのではないか。田女は、宝井其角の伊達、洒脱な江戸趣味の俳風を受け継ぐ江戸座で活躍した俳人で与謝蕪村とも交流があった。

一方、越前三国で人生を送った哥川(本名ぎん)は、現役時代は長谷川(または泊瀬川)の源氏名で廓づとめをしていた遊女俳人。地元の永正寺住職の永言(俳名・杉原巴浪)に俳諧と書を学び、俳人として哥川を名乗る。26歳ごろ、年期明け前の遊女としては異例の江戸への旅を許され、百日余りの滞在中に俳人、絵師ら文人と交流。この中には3歳年下の田女や同い年の与謝蕪村も。2年後には、13歳年上の千代女に招かれ、金沢で句会に参加。二人は交友を深める。31歳で年期が明け、豊田屋楼主となった哥川は、さらに各地の俳人と交流を深め、7年後仏門に入り、滝谷寺境内に庵を結び滝谷尼に。このころ九頭竜川の河口の海を臨む庵で詠んだのが代表句〈 奥そこのしれぬ寒さや海の音 〉

59歳になった哥川は、田女と編者の蕪村から句集『玉藻集』の序文を依頼され、協力。田女は、哥川と千代女の活躍を称えて〈 照れ光れ加賀越前の月ふた夜 〉の句を詠んだ。だが、こうした哥川の交流が地元の越前俳壇と溝を深め、結果として長く忘れられた俳人となったのは、皮肉。享年61歳。

〈 奥そこのしれぬ寒さや… 〉の句碑は三国町の妙海寺に、菩提寺の同町の永正寺には左の句を刻んだ句碑がある。

稲妻や明る妻戸に見うしなひ哥川

(中島道子著『越前三国の俳人 遊女哥川』渓声出版刊がお勧め伝記・句集)

 

第47話 「♪ゴンドラの唄」誕生秘話

♪ いのち短し、恋せよ、乙女…「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞、中山晋平作曲)は、発表から一世紀を経た今なお歌い継がれている。黒澤映画『生きる』で甦り、コミック、Jポップにも登場するなど“懐メロ”の域を超えた存在に。

大正文化の香り髙いこの唄、実は陽の目を見ない捨て唄になるところだった。突き止めたのは、ロシア文学者の相沢直樹山形大学教授。「ゴンドラの唄」誕生秘話を相沢さんの労作『甦る「ゴンドラの唄」』(新曜社刊)から引く。

この唄、島村抱月率いる「芸術座」が1915年(大正4年)に帝国劇場で行った第5回公演の演目の一つ『その前夜』」(ツルゲーネフ原作)の劇中歌だった。相沢さんは、ツルゲーネフ小説の戯曲を調べるうちに劇中で女主人公が歌う場面が設定され、「ゴンドラの唄」が急きょ発注されたことを知った。

島村から作詞を依頼された吉井は、童話で有名なアンデルセン原作小説で師、森鴎外訳『即興詩人』の作中に少年ゴンドリーノが歌う里謡をイメージして詞を書き上げる。鴎外訳は全体が文語調で里謡も〈 朱の唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少(わか)く、汝の血の猶熱き間に…〉と続く。これが吉井詞では〈 ♪いのち短し、恋せよ、少女(おとめ)、朱(あか)き唇、褪せぬ間に、熱き血液(ちしお)の冷えぬ間に、明日の月日のないものを。…〉となり、作曲は、前年の芸術座公演『復活』の劇中歌『カチューシャの唄』(島村抱月・相馬御風詞)を大ヒットさせた中山に。

中山は、母危篤で郷里信州へ向う列車の中で、八分の六拍子という当時の日本人には馴染みの薄い曲調の唄を作り上げる。公演直前に劇中歌はできたが、主役の松井須磨子が『その前夜』の劇そのものの公演をいやがり、差し替えられそうに。これを宥め、説得したのが御風。公演は成功、「ゴンドラの唄」も生き残った。

極道に生れて河豚のうまさ哉吉井 勇

ゴンドラの唄で締切る女正月渡部よね