俳句時事(175)

作句の現場「深秋の高麗郡」 棚山波朗

 高麗郡は埼玉県日高町から飯能市にかけての丘陵一帯で、かつて朝鮮から渡来した高麗人が開拓した土地だと伝えられている。7世紀半ば、百済と高句麗が新羅によって滅ぼされたため、数千人が日本に亡命した。その多くは武蔵野に移住し、先に渡来していた高麗王若光によって統治されたと言う。
 高麗神社は若光の遺徳を偲んで建てられたもので、白鬚神社とも称されている。社殿はゆるやかな曲線に縁どられ、朝鮮文化の名残りをとどめている。
 参道の両側には綿木が植えられており、紅葉が見事であった。辺りを鮮やかに照らし出していた。
 落葉焚きにはまだ少し早かったが、あちこちで煙が立ち上がっていた。冬を前にしたのどかな田園風景である。
 勝楽寺(聖天院)は高麗川駅から西1.5㎞にある高麗一族の菩提寺である。広い境内には本堂、阿弥陀堂、鐘楼が建っている。若光の墓は山門の横にあり、5個の砂岩を重ねた五輪塔である。
 山門の前の田では晩稲の刈入れが行われていた。田にはまだ水が残っており、大きな溝を掘って流していた。倒れた稲は1本1本丁寧に起こして刈っていた。刈った稲は畦道まで抱えるようにして運んでいた。ここで乾燥させるのである。
 民家の軒下では胡麻殻が立てかけてあった。農家の人の話によると、「一番叩き」が終った胡麻だという。胡麻は刈り取ってから乾して実を叩き落とすが、一度では落し切れないのである。一度叩いたものをもう一度乾して「二番叩き」をするという。
 巾着田は高麗川を人工的に迂回させ、田に必要な水を引きやすくしたもので、形が巾着に似ているのでこの名があると言う。まさに高麗人の生活の知恵ともいうべきものである。
 巾着田では溝蕎麦が至る所に自生していた。溝蕎麦はタデ科の一年草で、梢頭ごとに白い花を多くつける。茎の高さは50㎝ほどで食用の蕎麦によく似ている。巾着田を流れる小溝を覆うようにして咲いていた。
 高麗川の土手には臭木が数本かたまっている所もあった。星形に開いた紅紫の蕚の上に座ったように実をつけていた。光沢のある瑠璃色で、古くから染料として使われたことがよく分かる。
 この地方では茶の栽培も盛んで、あちこちに茶畑や茶の垣根を見かけた。花は白色五弁で小さく、多数の金色の蕊をもつ可憐な花である。
 高麗郷にはこのほかにも見るべきものが多い。今回は果たせなかったが窯業や牧畜、小川和紙の技術など朝鮮からの渡来人の伝えた大陸文化がいくつかある。
 それは今でも高麗に住む人の生活の中に生きているのである。