古典に学ぶ㊴ 『伊勢物語』のおもしろさを読む(27)─ 惟高親王の取り巻きとしての昔男と有常(2) ─

実川恵子

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前回に続く話(第八十二段、渚の院)がまだある。

かへりて宮に入らせたまひぬ。夜ふくるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔(ゑ)ひて入りたまひなむとす。

十一日の月もかくれなむとすれば、かの馬の頭のよめる。

あかなくにまだきも月のかくるるか山の端(は)逃げて入れずもあらなむ

天の河から離宮に帰った一行はまた夜更けまで酒を飲む。二次会の後の三次会である。
主人の惟高親王は、さすがに酔っぱらったので、寝室に入ろうとした。ちょうど十一日の月が西の山に隠れようとしている時刻であった。そこで、馬の頭(昔男)は歌を詠んで親王を引き留めようとした。
まだ十分堪能していないのに、もう月は隠れるのでしょうか。今にも月が入ろうとしている山の端がどこかに逃げて、入れなでほしいものであるよ。
寝室に入ろうとする親王を、山の端に隠れようとする月に喩えて名残を惜しんだ歌である。当意即妙のすばらしい歌と言えよう。
そして、歌いかけられた親王はまた返歌をしなければならないのだが、酔っぱらってしまってとても返歌することができなかったようで、また紀有常が返歌を代作する。
親王にかはりたてまつりて、紀有常、

おしなべて峰もたひらになりななむ山の端なくは月も入らじを

有常の歌は、昔男の歌の内容を否定し、別意を提示す。
山の端に逃げよというのは無理な話だ。それよりも峰全体が平らになってしまってほしい。平らになって山の端がなければ月も入るまいからね。
別意と言っても、無理な話だが、この歌もなかなか機知に富んだ巧みな歌だと言える。
但し、最初の歌の「あかなくに」は「古今集」巻十七・雑歌上・八八四に業平の歌として載るが、「おしなべて」の歌の方は、「後撰集」巻十七・雑三・一二四九に「月夜にかれこれ(月夜に誰彼とともに)」という詞書で上野岑雄(かんづけのみ ねお) の歌として載るので、実は有常の歌ではないようである。
このように、第八十二段の話から考えられるのは、昔男と有常の個人的な交友というより、惟高親王の縁者として、親王の周辺を盛り立てようとする政治的な意図を持った血縁集団の交流という要素が強いと思われる。また、これ以外の章段には、二人のうるわしい友人としての交友が描かれる。第三十八段がそれである。

むかし、紀の有常がりいきたるに、歩(あり)きて遅く来けるに、よみてやりける。

君により思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ返し、 ならはねば世の人ごとになにをかも恋とはいふと問ひしわれしも 昔男が紀有常の家に行ったところ、有常は出かけていてなかなか帰って来ないので、歌を詠んでやったという。「歩きて」とあるが、ここは女の所にでも行っていたのか、昔男はどこにいるのか見当がついていて、歌を詠んで届けさせたのだろう。
昔男の歌はおもしろい読みぶりである。
あなたによって、私は気持ちを学習しました。世の人はこれを恋というのでしょうね。
自分は恋という気持ちを今まで知らなかったのですが、あなたに待たされたことで恋の気分を習得した、と言う。恋の達人ともいうべき昔男が恋の気分を知らなかったというのもなんだか滑稽だが、有常の返歌は更にその上をいっている。
私の方こそ恋というものを習っていないので、世の人ごとに恋、恋と言うのはいったい何をさして恋と言っているのかと恋に詳しいあなたに尋ねた私ですのに。
そんな自分に恋を教わったなどと言われるのは心外だと切り返している。互いに恋の未経験を装い戯れあっているので、麗しいというよりは冗談を言い合う友人関係がうかがえる。これがただの友人ではなくて、舅と娘婿の関係なのだから、不思議な気がする。それにしても、第十六段にある「ねむごろにあひ語らひける友だち」という表現によくかなった間柄だと言える。