自由時間 (50)  ゲルニカ      山﨑赤秋

 スペイン北部のバスク自治州にゲルニカという小さな町がある。大西洋から十キロほど内陸に入ったところで人口は一・七万人。この町にはバスク地方の自治の象徴であるバスク議事堂と「ゲルニカの木」と呼ばれる樫の木があることで知られている(現在の木は四代目)。この木の前で歴代の領主が自治法の遵守を誓うという伝統があった。現在、自治州政府首班も同様の宣誓式を行っている。
 去る4月26日、ゲルニカで、八十年前の爆撃の犠牲者の追悼式が行われた。墓地での献花には約二百人が参加したが、その中には、招待されて参加した長崎の被爆者八人の姿も見られた。

 1937年4月26日、この日は月曜日で市の立つ日だった(現在でも毎週月曜日に市が立ちバスク一の賑わいを見せる)。広場や街路には新鮮な農産物・畜産物・水産物があふれ、町民ばかりでなく近郊から訪れた人々も交じって大いに賑わっていた。 
 午後四時半ごろのことである。晴れた空に爆音が響いた。南の方から飛行機が近づいてきて十二発の爆弾を駅周辺に落とした。それが始まりで、およそ三時間にわたり、次々と爆撃機・戦闘機が飛来し、爆弾・焼夷弾を投下し、機銃掃射を行った。焼夷弾が空爆で使用されたのは歴史上初めてのことであった。
 ゲルニカは壊滅的な打撃を受けた。建物の四分の三が全壊し、残りの建物も無傷のものはほとんどなかった。死者の数はおよそ三百人と推計されている。
 この時、スペインは内戦(1936~39)の真っ最中。総選挙で勝利したスペイン人民戦線政府に対してフランコ将軍率いる軍部がクーデタを起したのがはじまりで、スペイン全土にわたって戦闘が繰り広げられていた。 
 折からヨーロッパでは、ドイツ・イタリアのファシズム国家と反ファシズム国家とが対立しており、緊迫した情勢にあった。スペイン内戦もその影響を受けて、人民戦線はソ連の支援を受ける一方、フランコ将軍はドイツ・イタリアから支援を受けていた。ゲルニカの空爆は、フランコの依頼を受けて、ドイツ空軍とイタリア空軍が実行したものである。
 かつて戦争は戦場で兵士同士が武器を手に戦うものであった。兵士以外の人民が犠牲になることは余りなかった。武器の威力が増すにつれて民間人の犠牲が増えていった。特に大砲の発達が犠牲者の増大をもたらした。第一次世界大戦では、約千二百万人(うち民間人は二百二十五万人)が軍事行動(餓死・病死を除く)により死亡しているが、その七割は大砲によるものであるとされている。

 1903年にライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した。これにより戦争は飛行機という強力な武器を手に入れることになった。早くも1911年には、イタリア機がトルコ軍に対して爆弾を投下して、空爆の歴史の幕を開いた。第一次世界大戦でも空爆が使われたがまだ限定的であった。(オックスフォード英語辞典が「空爆」という見出しを採用するのは第二次世界大戦が始まってからである)
 空爆が積極的に使われるようになるのは第二次世界大戦からである。しかも、基地、港湾、橋梁、軍需工場といった軍事目標を攻撃する戦術的爆撃だけではなく、無差別に市街地を絨毯爆撃して、一般市民に恐怖心を与えることを目的とする戦略的爆撃も積極的に行われた。敵に恐怖心を与え、戦意を喪失させ、戦争の早期終結を図るのに有効である、という考え方である。終戦が早ければ早いほど、戦争被害は少なくて済む、というわけである。(原爆投下の正当性の論理)
 空爆が、戦争の悲惨さと被害の拡大をもたらしたことは言うまでもない。第二次世界大戦での軍事行動による死亡者数は約五千三百万人であるが、そのうち軍人は二千三百万人で、民間人はそれを上回る三千万人であった。第一次世界大戦での軍事行動による民間人の死亡者数の十三倍以上である。その大部分は無差別爆撃によるものであるといえる。
 ゲルニカ空爆は、無差別爆撃の元祖である。そのあと、日本軍による重慶爆撃、ドイツ軍によるロンドン空爆、イギリス・アメリカ軍によるドレスデン空爆、アメリカ軍による日本本土空襲、そして、広島・長崎への原爆投下へと連なるのである。
 パリにいたピカソは、共和国政府(人民戦線)からパリ万国博覧会のための壁画制作を依頼されていたが、まだ構想が固まっていなかった。そこに飛び込んできたゲルニカ爆撃の報せ。主題はすぐに決まった。直ちに制作に取りかかり、合わせて「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めた『ゲルニカ』を制作中である」という声明を発表した。ひと月もかけずに縦三・五㍍、横七・八㍍の大作を完成させ、パリ万博のスペイン館に展示した。戦争の悲惨さ、阿鼻叫喚を表現していて観る者を圧倒する絵だ。現在では、美術史において最も力強い反戦絵画芸術であるというのが定説となっている。

 1997年4月27日、ドイツのヘルツォーク大統領はゲルニカの住民にあてて次のような声明を発表した。「私は過去を直視し、関与したドイツの航空隊の罪を明白に認めます。その爆撃の生存者で、生々しい恐怖の証人であるあなた方に弔意と哀悼の意を表します」。翌年、ドイツ連邦議会はゲルニカ爆撃の謝罪を全会一致で決議し、同代表がゲルニカを訪問し謝罪。ここにゲルニカとドイツの和解がようやく実現したのである。