鑑賞「現代の俳句」 (99)         蟇目良雨

 

永き日の酒をほしがる太郎冠者窪田明[春耕]
「俳句」2016年7月号
狂言で太郎冠者と酒の組み合わせは「棒縛り」だろうか。主人の留守の間に留守番を頼まれもう一人の次郎冠者と両手を縛られた姿で酒を盗み飲みする場面が圧巻の捧腹絶倒の狂言。ところで狂言には季節感があるのだろうか。そんなことを考えていると掲句のように、永き日のつれづれが、酒を飲む気持ちを誘うのだということがよく理解できた。狂言に季節感を与えたと言っては言い過ぎだろうか。

増女おぼろのこゑを発すかな大石悦子[鶴・紫微]
「俳句」2016年6月号
増女(ぞうおんな)は増(ぞう)阿弥が創出した女面。年は少し上。憂いを含み引き締まった顔立ち。まあ年増女ということになろうか。女神・天女・神仙女の場面に用いられるという。朧夜の演能で面の内側から発した声が朧めいているというのが句意。朧の声がさらに幽玄さを増した。

芍薬は痛みの薬花盛り池田啓三[野火]
「野火」2016年7月号
紀元前の中国古代医学をルーツとして日本で発展してきた漢方薬。現代では更に研究が進み西洋医学の薬と助け合って医療に貢献している。芍薬は大きな蕾から花火が開くように咲くので驚かさせられるがこの芍薬の根が漢方では痛み止めの薬になるのだと言っている。単純な句作りであるが説得力がある。長年の経験が齎したものであろう。

乗り捨てし田植機つつく大鴉北村保[山繭]
「山繭」2016年7月号
田植どきに「結」を頼んで大勢でやった時代はもう過去のもの、今ではどこの農家でも高価な田植機を所有し一日か二日で田植を済ませてしまう。掲句は田植機が捨ててあったのでなく田植の途中で持ち主が離れた場面なのであろう。田植機の車輪などに付く泥から出て来た虫などを鴉がつついていたことを一句にした。一昔前なら代掻きを終えた牛の泥を雀や鴉がつついたのと同じ光景である。あと十年もすればロボット田植機が黙っていても田植をやってくれる時代になるはずだ。そうすると農家の人は何をするのだろうか。

耕すと見てとんできし烏かな山内四郎[春燈]
「春燈」2016年7月号
人が畑を耕すはずと見た鴉がいち早く飛んできたという場面。鴉の知能の高さは侮れなく、人間が鴉に悪戯をすると必ず仕返しを企てると言う。人が耕した畑にやってきて掘り起こされた地中から出て来た虫などをいとも簡単に取れることを学習しているのである。鴉の利口さに感心している作者が見える。

春惜しむ即ち命惜しめとぞ加藤耕子[耕]
「耕」2016年7月号
行く春を惜しむ場面は人それぞれである。芭蕉は「近江の人」と惜しんだが、作者は自分自身に「命惜しめと」語りかけて行く春を惜しんだのである。年を重ねるたびに地球の自転が早くなるように感じるのはなぜなのろうか。だが、こう言える人は幸せな人かもしれない。なすべきことがなせないのは多くのなすべきことを抱えているからである。すべてをなしきるために命を繋がなくてはならない。だから「命惜しめ」と云っているのである。

落丁のごとき一日鳥ぐもり成田清子[門]
「門」2016年7月号
日記などを付けていると、慌ただしく過ごした一日の内容がどうしても思い出せなく空白になってしまうことがある。掲句の落丁のごとき一日とはそんなことだと推測したのであるがどうだろうか。そんなとき渡り鳥たちと言えば着々と帰国の準備の余念がない。雲が行く手を隠していてもしっかりと実行する渡り鳥たちに感心している。

茄子汁や悪党よりもよく眠り朝妻力[雲の峰]
「雲の峰」2016年7月号
ドラマのひとこまのように出来上がった。「悪い奴ほどよく眠る」という黒澤映画があったが悪党は肝が据わっていなければ務まらない。作者はその悪党よりもよく眠る最近の自分を笑っているのであるが、同時に、よくぞここまで自信を持つことが出来たことよと自分を褒めている。それにしても茄子汁が絶妙な小道具になっている。昨夜来から食卓の上に置かれたまま飲まれることもなく、くたくたになっている茄子汁であることよ。

皮膚窪むほどの雨粒蟇今瀬剛一[対岸]
「対岸」2016年7月号
蟇の皮膚を窪ませるほど大きな雨粒が降っていることを発見して一句が出来た。スローモーション映像を見ているようである。同時に大粒の雨の降るときに蟇のいる地面まで屈んでいる作者の好奇心に満ちた姿もうかがえる。雨蛙などは皮膚が柔らかいから雨粒で皮膚が窪むことも少しは想像できるが、蟇の凸凹してざらざらした皮膚が雨粒で窪むほどの柔らかさであったのかと再認識させられた。

交はりの日ごとにあはし水羊羹三田きえ子[萌]
「萌」2017年7月号
近頃の和菓子のおいしさは言いようもなくすばらしい。夏になると全国の有名和菓子店がいっせいに水羊羹を売り出す。匙ですくうときの固さにそれぞれの個性があり、また、甘味もそれぞれである。掲句は一人っきりの時間に水羊羹を食べつつ、人との付き合いも随分淡くなってしまったなあと振り返っている光景。水羊羹の淡さが句に深みを添えている。 同時作〈日暮まで声を使はず芥子の花〉も作者の静かな日々を暗示する。

六月の雨に打たれて金閣寺遠藤若狭男[若狭]
「若狭」2016年7月号
金閣寺にはどんな雨を降らせたら似合うかを考えてみたら掲句のように六月の雨が一番似合うことになる。強く降る雨では無くしとしと降って、空も暗い方がいい。全面が暗い色調の画面の中央部に金閣寺がぼーっと浮かんでいる。これが室町文化の真髄なのだと作者は言っているようだ。暗い画面であるが明るさを感じさせるのはA音の多用にあると思った。

小三治のまくらの長し蚊遣香大島雄作[青垣]
「俳壇」2016年7月号
寄席で蚊遣香を焚く時代ではないから家で寛いでいるのだろう。小三治の落語をテレビやラジオでまたCDなどで聞くのであるが中々本題に入らず「まくら」を長々と喋っている。そのまくらを蚊遣を友としてゆっくり楽しむ作者がいる。

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