鑑賞「現代の俳句」(103) 蟇目良雨

 

 吹き上ぐる霧の濃淡とりかぶと 広渡敬雄[沖・青垣]
  
句集『間取図』2016年刊 

 鳥兜は毒のある植物である。根に毒の多くが集中しているが、葉や花にもあるので食べることは避けたい。しかし紫の花は山野においていかにも可憐で見る者を慰めてくれる。兜の後ろ側が反り上った鳥兜形が人間臭く一つ一つの花が語りかけてくるようにすら思える。
 掲句は鳥兜に霧が襲ってきてその濃淡の違いに驚いたことが一句になったのだが、「吹き上ぐる」の表現が山の斜面や崖の頂上にある鳥兜の状況を正確に表している。鳥兜の花と一緒に激しく動く霧の音に耳を澄ませている作者にまで思いが及んだ。

いつの世の歪か崖の岩清水 宮地英子[雪垣]
「俳句」2016年9月号

 ハケ道を歩いていると崖の割れ目から清水が流れ出している。こんな光景はよく目にすると思う。地質に詳しい人なら色々アプローチの仕方があるのだろうが、普通の人には大した感慨は湧かないのではないだろうか。作者は岩の曲り(褶曲)を見ていつの時代にできたものなのだろうかと疑問を覚え、それが一句になったのだと思う。岩の褶曲にはウン千万年を必要とするが、土地の歪みは地震が起こるたびに発生する。東日本大震災以後、熊本地震、鳥取地震など連続する最近の地震に私たちは敏感になっている。断層の変化などにも気をつける習慣が掲句を生んだ力の一部ではないかと思ったりする。


其々の指の名をもつ良夜かな 三田きえ子[萌]
「萌」2016年10月号

 忙しい日々を送っていると、手足が痛んだときに初めて手足のことに関心がゆく。私の場合、最近は肘や肩に痛みを感じることが多くなったがそれにはそれなりの理由があり、妻の介護で出た疲れが肘や肩に出てくるためである。
 ところで作者の日常を想像するに穏やかな静かな暮らしぶりが思われる。良夜に何をするでもなく手と手をこすり合っていると指にそれぞれ呼び名があったことを思い出した。親指、人差し指、中指、薬指、小指、みなそれぞれ作者にとって忘れがたい記憶があるのだろう。それらの思い出を辿りながら良夜を愉しんでいる作者がありありと目に浮かんでくる。

おもむろに解く知慧袋生身魂 加藤耕子[耕]
「耕」2016年11月号

 弘前六句・岩田氏と注のある中の一句。岩田氏がどんな方か存じ上げないが、弘前の語には力がある。超高齢の方が会話の中でこちらが思いつかないような知慧を披露してくれた。それもゆっくりと知慧袋を開くようにというのが掲句の内容。東北人特有の言葉少ない会話の中での遣り取りがはっきりと窺われるのはこの「弘前」の前書きに依るところ大である。私たちも生身魂に近づいているが、掲句のような大きな知慧袋を身に着けたいものである。

箒草手を差し入れて起こしやる 内海良太[万象]
「万象」2016年11月号

 高浜虚子に「箒草」という随筆がある。矯めつ眇めつ箒草を観察した結果、〈箒草露のある間のなかりけり〉〈箒木に影といふものありにけり〉〈其のまゝの影がありけり箒草〉の三句を得たというものである。そのうちでも「露の」句の観察眼が勝れていると門弟の中田みづほが激賞する文章もあるのだがここでは紹介する紙幅がない。又、虚子編『新歳時記』に「帚木」の項に「露の」句がそのままの言葉遣いで掲載されているが最近の角川俳句大歳時記には「影と」の句が採用された際〈帚木に〉と竹冠が無い帚木が使用されている。如何なる理由によるものであろうか。「帚木」と言えば『源氏物語』が思い起される位であるからその理由が知りたいものだ。
 さて、掲句は夏の暑い盛りに箒草の傾きを両手を差し入れて直してあげたというもの。箒草の柔らかな感触を両手に受けて思いは紫式部の時代に遊んでいると鑑賞して見たが如何だろうか。

佇めばかの日の風の真葛原 野中多佳子[辛夷]
「辛夷」2016年11月号

 真葛原に立ってみても中々感慨が湧き立つというものではない。ところが作者は「かの日」の風を思い出したのである。これから後は勝手に想像するしかないが、例えば〈葛の花むかしの恋は山河越え 鷹羽狩行〉を引き合いに出すと「かの日の風」が俄然生き生きしてくる。鑑賞は読者の勝手というのも俳句の鑑賞の楽しさである。

紫苑晴牛の機嫌の良き日かな 青柳志解樹[山暦]
「俳句」2016年11月号

 紫苑は背の高い菊の種類でどこにも見られるもので古くから日本にあった。紫苑の色は「しおに」色として源氏物語にも出て来る。紫苑の薄紫いろは涼やかな色で襲(かさね)の色目(しきもく)として秋の色とされている。さて掲句は田園の牛舎を訪れたときの景色であろうか、高く目立つ紫苑に導かれるように近づくと機嫌よく牛が顔を出してくれたというのである。秋晴に相応しい一句となったのは作者の御機嫌な顔も浮かんだからである。

夕風や処暑の飲食つつましく 小林篤子[鶴]
「鶴」2016年11月号

 処暑は二十四節気の一つで立秋、処暑、白露、秋分のように十五日間隔で続く。秋らしくなって暑さが収まることを処暑というのだが、もともと二十四節気、七十二候の考え方は中国の黄土高原における考えなので日本での季節感と中々適合しない。暦の上では八月下旬に当りまだまだ暑い盛りである。しかし日本人好みの季節の移ろいを表現する言葉として、言葉の持つ本意に素直に従えばいいのではないだろうか。句意は、夕風の吹いて秋らしく暑さの収まった処暑であるが普段通り飲食をつつましく済ませましょうねということ。四季それぞれにゆっくりと体を慣らして順応してきたのが日本人であることを認識させる句である。

宵闇の枝を広げて桂の木 藤本美和子[泉]
泉」2016年11月号

 月に桂の木が生えているというのは中国の伝説。中国では桂は銀木犀のことで、中秋の頃一斉に咲き匂うので、月と桂(銀木犀)が結びついてきた。この話が日本に持ち込まれたときに日本にあった桂の木と中国の桂(銀木犀)が混同してしまったようだが、私たちは素直に説話を受け入れればいいのだ。
 宵闇の中に枝を広げている桂の木はやがて現れる月の出を今か今かと待ちわびているのだ。桂の木の侘しさが擬人化されていると思った

(順不同・筆者住所 〒112-0001 東京都文京区白山2-1-13)