鑑賞「現代の俳句」 (121)                     蟇目良雨


残生や白梅に闇溜まり初め鍵和田秞子[未来図]
「俳句」2018年4月号
 蕪村は〈白梅に明くる夜ばかりとなりにけり〉と晩年に詠んだ。人生の艱難辛苦を消し去った白梅の清き色の中に自らの晩年を置いたのである。幼少期を終に語ることのなかった蕪村であったが白梅を通してその幼少期の美しい思い出を表したかったのではなかったのだろうか。掲句と較べてみよう。作者は白梅を囲み闇が溜まりだしたと強調している。白梅の明るさが次第に闇に包まれて暗くなってゆくことを恐れている晩年の作者がここにはある。これも人生観の一つとして肯わなければならない。

乗込みの鮒に光の沸騰す村上喜代子[いには]
「俳壇」2018年5月号
 種を繫ぐ命がけの行為が乗っ込みである。産卵のために流れの無い水の浅場に集まり産卵をする。数10匹の雄と雌の鮒が組んずほぐれつ我を忘れて重なり合うさまはまさに光が沸騰するようであり命がけの恍惚境である。命を繫ぐときに発する光の沸騰である。たも網などを差し出せばすぐに何10匹も取れてしまいそうだ。

梅一輪太陽一輪照らし合う月野ぽぽな[海程
「俳句」2018年5月号
 この句は金子兜太さんの追悼句としてつくられたもの。一般に追悼句は亡くなった方の業績の一片を句に盛り込むことによって深みが増す。例えば兜太さんの作品から青鮫、マラソン、彎曲、へそ出し、人体冷えて、秩父、狼などのキーワードが浮かぶだろう。逆にいえばこれらのキーワードを盛り込んだ句は予定調和といわれても仕方がない。掲句の梅は〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太〉の梅と関連があると言えばあるのだが、兜太さんが亡くなった2月20日頃の季節感としての梅であり、兜太さんを太陽のように尊敬している作者の素朴な感情が素直に表出された大変バランスのよい作品と感心した。太陽を一輪と表現し兜太さんを暗示した大胆さが眼目。

山藤を瓔珞として磨崖佛戸恒東人[春月]
句集『学舎』より
 藤棚から豊かに垂れ下がる花藤を瓔珞のようだと見做す作り方もあるが、瓔珞と言った以上句の環境を整える必要があるだろう。掲句のように磨崖佛を据えることによって環境は整う。磨崖仏の彫ってある岩山の上から垂れ下がる山藤の花房はまさに仏を荘厳する瓔珞と言えるのである。磨崖仏の冠から瓔珞が垂れ下がり、または胸元の飾の瓔珞が垂れ下がって見えるように、誰もが納得する1句になった。同時作〈瓢簞より出でし駒もて飛馬始〉も面白い作り方。「ひめ始め」を馬に乗り始めと捉えて、その馬が瓢簞から生まれた駒だと面白がっている。新年にふさわしい遊びに満ちた句。

船宿の声のざらつく田螺和橋本榮冶[枻]
「枻」2018年5月号
 田螺が減少してからどのくらい経つのだろうか。田に撒く農薬の影響と思っているが、螢が減少したことと関連がある。もう15年も前のことだが、成田山の参道で田螺の佃煮を買ったのが日本の田螺を食べた最後だ。中国の桂林で漓江下りの船上で食べた田螺炒めの記憶ももう10年前のことになってしまった。戦後間もない食料難に田んぼで取った田螺がいやに懐かしく感じる此の頃である。掲句の船宿は墨田川のような洒落た船宿ではなく近江八幡とか潮来の水郷にある船宿の光景だろう。田螺あえを楽しむ客と宿の人のざらつく声の対比が生き生きしている。

友二忌やビターショコラの一かけら鈴木しげを[鶴]
「鶴」2018年5月号
 友二は「鶴」の2代目石塚友二で、昭和61年2月8日亡くなった。享年79。石田波郷より7歳年長であったが、上京後も生活に追われ第2の職場である東京堂書店の丁稚時代に職場俳句に参加した時はすでに20台半ば、波郷が中学時代から俳句に親しみ19歳で上京してすぐに秋櫻子の庇護を受けて「馬醉木」編集を手伝った頃と同じ時期であった。
 大石悦子さん著『師資相承』に刺激されて読んだ石塚友二著『田螺の唄』から友二の貧しくも文学を目指した青春の悲しみがチョコレートのビター(苦味)にこめられていると感心。

落椿踏まねば行けぬ母の墓佐藤信子[春燈]
「春燈」2018年5月号
 母の墓への径に落椿が満ちている。美しい光景だが踏まねば墓まで辿り着かぬ。さあ、こんなときあなたならどうする。〈落椿踏んで急ぎぬ母の墓〉などと作れば美しい光景は分かるが心の冷たさも分かってしまう。美しい落椿たちを踏まなければならない心の葛藤があってこそ句に奥行きが生まれる。掲句のように作ることによって踏みたくないが踏まざるを得ない葛藤が分り、作者の優しさが分るものである。踏絵と同じ心境に作者はなっていたに違いない。

 

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