鑑賞「現代の俳句」(100) 蟇 目 良 雨

 

春の闇ならば加速もニュートリノ中坪達哉[辛夷]

「辛夷」2016年6月号

難しい話になるので専門家の意見を記す。「ニュートリノは宇宙で最も豊富な素粒子の一つで、身の回りを光速で飛び交っており、私達の体を1秒間に約1兆個も突き抜けていきます。しかし、ニュートリノは他の物質とほとんど反応しないので、私達がそれを感じることはありません」という。さらに電荷を持っていないので加速器で加速することもできないという。即ち、宇宙の彼方の星の爆発などで飛び出したニュートリノが我が物顔に好き勝手に宇宙を飛び回っているのである。とすると掲句の「加速」の意味は、あり得ないことであるが「春の闇」の中では、もしかすると加速も行われてしまうのではないかと妄想にふけってしまったのである。春の闇にはそんなおどろおどろしたところがありそうだ。飛驒神岡の「スーパーカミオカンデ」を見学した時の作品。

妣のこゑ泉のこゑもかすかなり田村正義[薫風]

「薫風」2016年7月号

泉の発した声から、亡くなった母の声を思いつく感性に共感したが、それらの声が共にかすかであったとする詩的な設定がこの句を一段と高みに上げたと思う。生前の母の床しさも偲ばれるというものである。泉もさぞ掬すべき甘露なものであることだろう。

白玉や家の中にも母の杖柴田佐知子[空]

「空」2016年6・7月号
作者が母上を介護されていることは「空」誌上で知っているので情景がありありと理解できた。「お母さん、白玉を買ってきましたよ。一緒に頂きましょう!」「あら、うれしいわね。食卓へ行って頂こうかね。」
こうして母は屋内用の杖を頼りに歩いてくる。体が不自由になったとはいえ、自分で出来ることは可能な限り自分でやることで娘に負担をかけないことを心がけてきた母であった。床を突く杖の柔らかな音に、いつまでも健やかに母が過ごしてほしいと願う娘である。

曳かれきてすでに神寂ぶ御柱伊藤伊那男[銀漢・春耕]

「俳句」2016年7月号

諏訪地方の御柱祭は少し異様である。諏訪衆のあの熱狂ぶりはどこから来るのであろうか。御柱祭にまつわる死者は現代でも無くならない。掲句は山から切り出され里を曳かれている御柱の光景を詠んでいるのであるが、枝を打ち落とされ丸裸同然の御神木が大勢の人に曳かれている。それはガリバーを大勢の小人が引いてゆく光景に似ている。地面の上をこすられながら、剝きだしで引かれてゆく様子は憎い敵が引きずり回されているとも思える。途中の光景がすでに神寂びているのだからこの先の「木落とし」「建御柱」などの光景は更に神寂びてゆくのも道理であると思った。

投函に行く八十八夜のちよいちよい着能村研三[沖]

「俳壇」2016年7月号

お百姓さんなら八十八夜になると、茶摘みのこと、播種のこと、遅れ霜対策など何かをしなければと暦を確かめるのだろうが、都会に住む人には何をしていいのか分からぬ。しかし八十八夜という言葉が何かせよと囁きかけているようでもある。作者はこの何かしなければという気持ちに駆り立てられて、取り敢えず手紙を出しにポストまで出かけた。外は家の中に比べると少し冷えている。普段着を一枚羽織って出たというのが掲句の意味である。普段着をちょいちょい着と表現したとこで俳諧味が出た。あなたは八十八夜に何をしましたか。

ころはよし祇園囃子に誘はれて後藤立夫[諷詠]

つなぎし手離し祭の中へ消ゆ和田華凛

「諷詠」2016年 818号

後藤立夫さんは後藤夜半、後藤比奈夫につながる「諷詠」の第三代主宰である。残念なことに平成二十八年六月二十六日に七十二歳で永眠された。その時の辞世の句が〈ころはよし祇園囃子に誘はれて〉である。父比奈夫さんには〈東山回して鉾を回しけり〉の名句がありこれで親子そろっての祇園祭の句が揃った。祖父夜半さんには〈金魚玉天神祭映りそむ〉という大阪の天神祭の名句がある。大阪在住の立夫さんが京の祇園祭を辞世の句に詠まれたところに関西俳人の守備範囲の広さを感じる。七月の一か月間に亘り繰り広げれられる祇園祭の稽古のお囃子がきこえたことを一期の思い出にして旅立たれたのである。和田華凛さんは立夫さんの娘さん。第四代「諷詠」主宰に就かれた。ご活躍を祈ります。

冷し酒齢訊かれて老いにけり今福心太[鶴]

「鶴」2016年8月号

老人の心理をうまく表現したと思った。冷酒をうまそうに飲んでいたのであるが誰かに「あなた、おいくつになりました?」と年齢を聞かれた。途端に我に帰って「そうだ、こんなに羽目を外して飲んでいい若さはとうにすぎていたのだったなあ」と老いを感じたという一句。「冷し酒」を「熱燗」に置き換えたとき同じような感懐に浸れるかという疑問があると思う。しかし熱燗や湯豆腐にはすでに老人趣味が入っていると思うのが私の考え。冷し酒が大変効果的であると感じた。

青大将おのが身の上折り返す星野恒彦[貂]

車椅子につかまり立ちの更衣

「貂」2016年8月号

いずれも写生の行き届いた句である。青大将の句は、進行方向を変える時に自分の胴体の上を通って行ったことを見逃さなかった。蛇はS字形に体をくねらせて進むから、進行方向を変える時もそうすれば可能であるし普段はそうしているはずなのだが、何故、自分の体の上を通らないと戻れない状態になったのか、狭くなっている行き止まりの場所から引き返すことになったのか、天敵に遭遇して戻らざるを得なくなったときなのか、さまざまな場面が考えられて有意義であった。同時作〈車椅子〉の句は奥様の更衣の様子と思うが、車椅子生活をしていても折々の季節に相応しい生活を望まれる強い意思が「つかまり立ち」をしても更衣を行うことに表れていると感心した。

今日終る洗濯篭にハンカチ入れ山崎ひさを[青山]

「田」2016年8月号

こんなことが俳句になるのかと驚いた。ポケットに押し込んであった使い古したハンカチを洗濯篭に放り込んで今日一日が無事過ぎたと独り言ちているようである。自分の生活の周りにいくらでも句材が転がっていることを証明している。句材を拾えないのは何故かを自問してみたい。__