衣の歳時記(92) ─胴着 ─                        我 部 敬 子

 

 立冬の頃に木枯し一号が吹き、一段と寒さを感じる11月。時折は小春日和が続くが、平均気温はどんどん下がっていく。そろそろ綿を使った暖かい衣服を身に付けたくなる時候である。

有難や胴着が生める暖かさ高浜虚子

 着物と襦袢の間に着る防寒用の「胴着」。大抵は真綿を薄く伸ばして綿入れに仕立てる。「胴衣」ともいう。素材は木綿、滑りの良い絹、縮緬など。黒の掛け襟を付けることもあった。

八丈の茶勝の古の胴着かな松根東洋城

 胴着は江戸時代に作られたもので、用途によって色々な形になる。袖がなく、主に羽織の下に着ていたものが「袖無胴着」。「筒袖胴着」は袖が筒形で肌着として着用。真綿だけで作ったものは「負真綿」と呼ばれた。いずれも副季語である。

負ひ真綿して大厨司る高野素十

 他にも綿の保温性を活用した衣服は多い。「綿入れ」「ちゃんちゃんこ」「褞袍」「綿子」「ねんねこ」「背蒲団」などは、暖房器具がない時代や寒冷地では必需品であった。
 因みに筆者の父親は仕事から帰ると和服で過ごしていたが、胴着らしいものを見たことはない。冬は紬の綿入れに兵児帯を結んでいた。暖かい四国ではあまり必要とされなかったかもしれない。
 「胴着」は衣服と衣服の間に挟む「間着」なので、着物との色合せを考えて、あれこれやりくりして作る女性の夜鍋仕事の一つであった。

寄せ継ぎて洒落のなごりの胴着なる小林一江

 間着というと夏目漱石の長襦袢を思い出す。以前にも書いたが、10年前江戸東京博物館の「漱石展」を見に行った時、「長襦袢」と書かれた鮮やかな着物に驚いた。赤地の更紗模様で女物にも見えるから憶測が飛んだ。その顛末を孫の半藤末利子がエッセイ集『漱石の長襦袢』で明かしている。女物でなく、漱石好みの南蛮更紗を渋い着物の下に間着として重ね、お洒落を楽しんでいたのだと。
 それを生誕150年の今秋開館した漱石山房記念館で見ることができる。綿はなく、袷仕立てで長襦袢には見えない。墨やインクの飛んだ痕が残っている。漱石の美意識が伺える貴重な遺品である。
 胴着ではないが、同じ生誕150年の正岡子規の着物にも触れておく。
 毎年9月の糸瓜忌の頃に、池内けい吾先生の句会で子規庵を訪ねている。今回の目玉は新しく発見された俳句の五句であったが、子規の着物の布切れに見入ってしまった。濃紺地に白の唐桟風の縞で、良く知られた横顔の写真で着ていたもの。子規の衣類の展示は初めてである。
 並んで置かれた少し太めの紙縒も丁寧に縒られて美しかった。母八重と律の愛情と手仕事の温もりをしみじみと感じて、静かな感動を味わった。