古典に学ぶ㊼ 『枕草子』のおもしろさを読む(1)
    ─ 新しい美意識、新しい表現をめざして ─                                                      実川恵子

 壮大な構想力と深い人間観察を得意とした紫式部に対して、「瞬間の物語」を鮮やかに描き出すのに優れていたのが、式部と同時代を生きた清少納言であろう。
月のいと明かきに、川をわたれば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ(第一二六段「月のいと明かきに」、テキストは、三巻本を底本とした『新編日本古典文学全集 枕草子』小学館刊による)
 月がとても明るい夜に、川を渡る。牛車を挽く牛があるくのにつれて、水晶が割れくだけているように、川の水が散っている有様であるのは、本当にすばらしい。
 月明かりの下の、川水の一瞬のほとばしりを水晶にたとえた散文詩であり、また清少納言が自然のなかに発見した一枚の絵画のようでもある。
 それは、静的な美ではなく、動的な美を鮮やかに、また印象的に描き出す。車を挽いて川瀬を渡る牛の足元に飛び散る水しぶきが、折からの月光に燦然と輝く、その一瞬をとらえたこの文章に至っては、やはり視覚に最も鋭敏なものをもった作家であったと思われる。
 清少納言は、このような風景にも限りない興味を抱いたが、まったく逆に、目に見えない抽象的な言葉というものにも強い関心を示した。たとえば、「里は」(六三段)という章段がある。

里は逢坂の里。ながめの里。寝覚(いざめ)の里。人妻(ひとづま)の里。たのめの里。夕日の里。つまとりの里、人に取られたるにやあらむ、わがまうけたるにやあらむとをかし。伏見の里。あさがほの里。

 里は逢坂の里。ながめの里。寝覚の里。人妻の里。たのめの里。夕日の里。つまとりの里は、妻を人に取られたのだろうか、人の妻を取って自分のものとしているのであろうかとおもしろい。

伏見の里。朝顔の里。

 清少納言は、おもしろい名をもつ人家がある程度集まっているような村の名を列挙する。「つまとりの里」になると、彼女は次のようにいう。「妻を人に取られたのかしら、それとも人の妻を取って自分のものにしたのかしら。考えると興味を引かれちゃうわ」と。確かにこれらの「名」の数々は、思わず詮索したくなるような「里」の名前。物の名前を聞くと、その名前からすぐに意味を連想し、思考をめぐらせるのである。そこには、男と女の逢瀬のドラマがこの名を連ねただけのような独創的な世界へと展開されていくのである。
 名前というものが、実際のものにいかにもふさわしいと思われるときは、清少納言はこんなふうに楽しんでいくが、名前と事柄が対応しているように見えないときは、鋭く批判し始める。たとえば、「池は」(第三六段)という章段であげている「水なし池」。彼女は不思議に思って、その名の由来を人に尋ねる。すると、次のように答えがかえってきた。「梅雨の季節など、例年よ
り雨が多く降りそうな年には、この池に水というものがなくなるのです。逆に、ひどく日照りが予想される年には、春の初めに水がたくさん湧き出すのです」。それを聞いて、こんな反論をする。「全然水がなく干上がっているならばこそ、「水なし池」ともいえるだろうけれど、水が湧き出ることもあるのよ。すごく一方的な名前の付け方よね」と。
 清少納言は、歌を詠まない自由を見つけた。筆の赴くまま、感じたこと、思ったことを試みたのである。「散文詩」といわれるほど文学的に高められた随筆『枕草子』の誕生である。