古典に学ぶ (51) 『枕草子』のおもしろさを読む(5)    
        ─ 類聚章段諸段考「山は」段の連想の糸① ─                                                                                                                     実川恵子

 星たちの連想の躍動を最もドラマチックに演出する山。今回はその「山は」(十一段)を取り上げてみたい。清少納言はどんな山々を列挙しているのだろうか。
 山は 小倉山。鹿背山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。わすれずの山。末の松山。かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ。いつはた山・かへる山。のち瀬の山。あさくら山。よそに見るぞをかしき。おほひれ山もをかし。臨時の祭の舞人)などの思ひ出でらるるなるべし。三輪の山、をかし。手向山。まちかね山。たまさか山。耳なし山。
 「星は」章段と同じように、山の名称にほんの少しの評言を挟んだ形式である。十年ほど前に名訳と評判になり、ベストセラーとなった橋本治の桃尻語訳『枕草子』からこの章段の世界を紐解いてみよう。

 山は─。
 小倉山、鹿背山、三笠山。このくれ山、入立の山、忘れずの山。末の松山!。
 方去(かたさり)山ってさ、ホント、「どういう意味なんだろう?」って、素敵よね。
 五幡山、帰山、後瀬の山。
 朝倉山は、「知らん顔する」ってとこが素敵!
 大比礼(おおひれ)山も素敵ね。臨時のお祭りの時の踊り手なんかがさ、思い出されるようになってるのよ。
 三輪の山は素敵よォ。
 手向山ね、待兼山ね、玉坂山ね。耳成山よ!

 この桃尻語訳は、難しいと言われる古典を古くさい衣を脱がせて、現代の若者たちにも良くわかる言葉で表現したものである。本段に即した清少納言の躍動の表現世界を上手く捉え、その連想の糸を見事に紡いだ訳であり、また構成となっている点も注目される。
 また、この訳に続き、橋本氏は「註」として清少納言のこの機知に富んだ精神の働きについて次のように述べている。

でもこんなもん一々説明してたってバカみたいじゃない。知ってる人間に「分かるゥ⁉」って、言って言われてて、それで面白いんだからさ。どうして小倉山か、どうして小倉山の次で鹿背山か、とかさ、知らない人には関係ないもん。結局さ、あたし達っていうのはほとんどロマンチシズムの世界の中に住んでたのと同じなのよ。

 まさにその通りである。そのあと橋本氏は、この「山は」の中にも取り上げられる「末の松山」を詠んだ、清少納言の父清原元輔の「後拾遺和歌集」、恋四、巻頭歌に置かれた「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは」(互いに袖の涙を絞りながら約束しましたね、末の松山に波を越させまい、決して心変りはするまいと)を引用し、末の松山の所在地などについては知りえないが、

そこに勝手に波が越してくっていうイメージくっつけてさ、山の上を波が越えてくシュールな景色見てるんだからね。(中略)自分たちの知らない世界にはロマンチックな景色が満ち満ちているって思ってたんだからさ。現実がロマンチックだからそこをエスプリで渡ってくのよ。どうしてそれじゃいけないのかあたしには分かんないわね。あたし達よりズーっと後になるとさ、なんでもリアリズムになっちゃってさ、あたし達の世界観を〝歌枕の非現実〟みたいな言い方する訳でしょ?

と、実に興味深い、的確な鑑賞をしているのである。