古典に学ぶ (54) 『枕草子』のおもしろさを読む(8)
   ─ 類聚章段諸段考「草の花は」段(六五段)の薄② ─                                     実川恵子 

  この「草の花は」の末尾の描写に、「これに薄を入れぬ、いみじうあやしと人いふめり」とあるのは、著作態度を考慮する点で興味深い。「人いふめり」の「めり」の解釈は分かれるところであろうが、実際に人々がそう言うようだと解釈すれば、この章段は一度流布したあと、作者の手もとに戻った経緯があるところから言えば、作者自身の手により増補されていったという根拠を示すことになる。いずれの解釈にしろ、当時の読者層の反応まで考慮に入れて執筆されたことを思うと、かなり独自性の後退も余儀なくされていると判断しなければならない。また、そうした反応を意識したことは、自身の表現に完璧さを期待したことは無関係ではあり得ないと思う。さらに常に自分がどのように理解、評価されているかを意識したことと無関係ではあり得ない。さらに常に自分がどのように理解、評価されているかを意識したことになり、徹底してそれを追求している作者を感じるのである。このように「冬の末まで頭のいと白くおほどれたるもしらず、……」と、薄の白さから老いに思いをはせる作者は、「よそふる心ありて、それをしもこそあはれと思ふべけれ」とあくまでも第三者の立場で記述しながら、作者の本心らしき一側面が垣間見える表現であろう。
 このように、薄について言及する口調はとてもおかしくもある。「皆さん、薄が出てこないのはおかしいとお思いでしょう」といった得意げな口ぶりである。また、「穂先の蘇枋にいと濃きが、朝露に濡れてうちなびきたるは」というところは、さすがに清少納言、この時代の感受性を見事に表現している。秋の末、ほほけた薄のうらぶれた風情を巧みに言い取ったところは、達意の名文であろう。
 若き頃、この文を読んだとき、私は老醜をきらう清少納言の思いの文だと感じ、いくら何でもこれはひどいことを言うものだと思ったのである。ところが、自分が「かしらのいとしろくおほどれたる」頃になってみると、かえってこの文にそういう毒気を感じなくなっている。それは一つには、幾度となく、「風になびきてかひろぎ立てる」薄を見てこの文を思い出し、その薄のフラフラゆれる姿が、悲惨というよりどことなくおどけていると感じたからである。また、自分の周囲の人の老いてゆく姿をみながら、だれでも、年だ年だというわりには若盛りの頃の自分とひどく違っているとは心底思っていない。そして私もまた、年だ年だと口ずさむ年齢になって、時としてひどくガッカリすることもありながら、結構楽しくにぎやかに日々をすごしている。
 若さの喪失そのものは、私が昔おそわれたほどこわいものではなさそうだと思うようになったからでもある。今の私は、この文をすでに社会の第一線から遠くなってしまった清少納言が『枕草子』にかつての男たちとの想い出を書きながら、いつしかその当時の状況に没入しきっていく自分を、いささか諧謔的に書いたのではないかと思いながら再び、ほほけて、うらぶれた風情でゆらゆらと立っている穂薄を楽しく見つめている。