子規の四季(77) 歌人たちのおもてなし         池内けい吾

 明治34年(1901)は辛丑の年。子規は1月16日から新聞「日本」に「墨汁一滴」の連載を始めていた。その頃から横腹に痛みを覚え筆をとることが困難なため、殆どの執筆を口述筆記に頼っていたが、一行以上二十行以下と決めた「墨汁一滴」だけは自筆で出稿していたのである。

 2月9日の「墨汁一滴」には、最近贈られた諸国の名物が紹介されている。大阪の天王寺蕪、函館の赤蕪、秋田のはたはた魚、土佐のザボン、越後の鮭の粕漬、青森の林檎羊羹、越中の干柿、備前の沙魚(はぜ) 、伊予の緋の蕪や鯛の粕漬、神戸の牛の味噌漬、伊勢の蛤、薩摩の薩摩芋などとともに、珍しいものとしてアメリカの蜜柑が登場する。

 2月12日には「墨汁一滴」を通じて「日本」文苑欄の俳 句投稿者に、それそれ自選を厳しくして佳句を投稿するよう呼びかけた。

 子規の病状を気遣ってか、この月は伊藤左千夫をはじめとする歌人たちが、しきりに子規庵を訪ねている。まず2月3日に左千夫が来訪。左千夫は七日にも訪れたが「山会」の最中だったこともあり、来意も告げずに辞去した。8日には香取秀真(ほつま)が来訪。10日には岡麓が訪れた。13日午後には、また左千夫が百花園で買った長命菊・土筆・石竹などを植え込んだ目籠を土産に来訪した。春近しを思わせる土産である。 この日、子規は左千夫にこう語ったという。

 湯に入らぬことすでに五年、足を洗わぬこと半年、顔を洗わぬこと二か月。律にアルコール清拭はしてもらうが、身動きできないのが辛い。人との交際としては、左千夫との交わりが最後になるだろう。

 子規は左千夫たちの来訪について記していないが、右のいきさつは左千夫の「根岸庵訪問の記」に記録されている。子規との会話は左千夫を悲しませると同時に感動させたのであ ろう。左千夫は夕食をともにした後、7時過ぎに帰った。

 2月28日(木)、子規は朝の六時半に目覚め、まず新 聞で昨日帝国議会が停会を命じられた、という記事を読む。 新聞を読みながら繃帯を取り替えてもらい、粥二碗をすする。 繃帯の取り替えにはかなりの痛みを感じるので、新聞を睨んで傷みを紛らわせるのである。ついで梅の句の選をする。

 この日は左千夫たちから会席料理のもてなしを受ける約束になっており、子規はその準備に家人を急かせた。まず水仙を漬物の小桶に活けかえるようにいうと、桶がないという。 それなら水仙も竹の掛物も取りのけて雛を飾れと命ずる。古紙の雛と同じ画の掛物を飾り、傍らに桃と連翹を乱れさせた。

 左千夫が現れ、秀真・麓もやって来た。左千夫は大きな古釜を携えて来た。茶をもてなすためである。釜の蓋は近ごろ秀真が鋳造したもので、つまみの車形は左千夫の意匠だという。麓は持参した利休の手簡の軸を釜の上に掛けた。

 この日のもてなしの内容は、3月2日付の「墨汁一滴」に詳述されている。

 左千夫茶立つ。余も菓子一つ薄茶一碗。
五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し。
味噌汁は三州味噌の煮漉、実は嫁菜、二碗代ふ。 鱠なますは鯉の甘酢、此酢の加減伝授なりと。余は皆喰ひて摺山葵(すりわさび) ばかり残して置きしが茶の料理は喰ひ尽して一物も余さぬものとの掟に心づきて俄に当惑し山葵を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑ひとなる。 平(ひら)は小鯛の骨抜四尾、独活、花菜、山椒の芽、小鳥の叩き肉。 肴は鰈を焼いて煮たるやうな者鰭と頭と尾とは取りのけてあり。 口取は焼玉子、栄螺(?)栗、杏及び青き柑類の煮たる者。 香の物は奈良漬の大根。飯と味噌汁はいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出し且つ飯且つ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛り出し各椀にて食ふ。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなりと。余は遂に料理の半を残して得喰はず。飯終りて湯桶に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべしとて心覚のため書きつけ置く。  点灯後茶菓雑談。左千夫、其釜に一首を題せよといふ。 余問ふ、湯のたぎる音如何。左千夫いふ、釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たらんかと。乃ち   

 題 釜 
氷解けて水の流るゝ音すなり  
子規

 子規は初めての本格的な会席料理を、質量ともに堪能したようだ。そして左千夫・秀真・麓の三人の、子規への「おもてなしの心」にも感動させられる。子規には、この日の会席料理はよほど印象深いものだったのだろう。翌3月3日付の 「墨汁一滴」にも、会席料理の味噌汁について書いている。

 料理人帰り去りし後に聞けば会席料理のたましひは味噌汁にある由、味噌汁の善悪にてその日の料理の優劣は定まるといへば我等の毎朝吸ふ味噌汁とは雲泥の差あることいふ迄もなし。味噌を選ぶは勿論、ダシに用ゐる鰹節は土佐節の上物三本位、それも善き部分だけを用ゐる、 それ故味噌汁だけの価三円以上にも上るといふ。(料理は総て五人前宛なれど汁は多く拵へて余す例なれば一鍋の汁の価と見るべし)其汁の中へ、知らざる事とはいへ、 山葵をまぜて啜りたるは余りに心なきわざなりと料理人も呆れつらん。此話を聞きて今更に臍ほぞを嚙む。

 さらに茶道には様々な伝統や作法があることには理解を示しながらも、あまりにも伝授とか許しとかに拘るために茶の趣味は世人に理解できないものになっていると指摘する。茶道も時には従来の決まりや伝授されてきた方式を脱却して、歌や俳句のように「新鮮なる意匠の案出」「臨機応変の材」を求めてもいいのではないかという。そして革新派らしい独自の茶道論をこう締め括っている。

何事にも半可通といふ俗人あり。茶の道にても茶器の伝来を説きて値の高きを善しと思へる半可通少からず。茶の料理なども料理として非常に進歩せるものなれど進歩の極、堅魚節の二本と三本とによりて味噌汁の優劣を争ふに至りては所謂半可通のひとりよがりに堕ちて余り好ましき事にあらず。凡そ物は極端に走るは可なれど其結果の有効なる程度に止めざるべからず。 茶道に配合上の調和を論ずる処は俳句の趣味に似たり。 茶道は物事にきまりありて主客各其きまりを乱さざる処甚だ西洋の礼に似たりとある人いふ。

 歌人たちのおもてなしがきっかけで、茶道のありようにまで思いを馳せる、子規には貴重な体験の一日となったようだ。