子規の四季 71 草花帖  

                                                        池内けい吾蓮

明治35年(1902)8月1日(金)晴。

子規は、渡欧した中村不折から預かった画帖を無断で貰い受け、「草花帖」と名づけて写生を始めた。すでに6月からは「果物帖」の写生をしていたから、8月6日までは2つの画帖が並行して画かれたわけだ。
「草花帖」の冒頭に、子規はこう記している。

此帖ハ不折子ヨリアヅカリタリト思フ 併シ此頃ノ病苦ニテハ人ノ書画帖ナドヘ物書クベキ勇気更ニナシ 因ツテ此帖ヲモラヒ受クル者ナリ 若シ自分ノモノトシテ之 ニ写生スルトキハ快極リナシ 又其写生帖を毎朝毎晩手ニ取リテ開キ見ル事何ヨリノ楽ミナリ 不折子欧州ヨリ帰リ来ルトモ余ノ病牀ヨリ此唯一ノ楽ミ(即チ此写生帖)
ヲ奪ヒ去ル事ナカランヲ望ム  病子規 泣イテ言フ
写生ハ総テ枕ニ頭ツケタマゝヤル者ト思ヘ
写生ハ多クモルヒネヲ飲ミテ後ヤル者ト思ヘ
明治三十五年八月一日  秋海棠 シウカイダウ
同日  金蓮花 ノウゼンハレン NASTURTIUM
ゲンノショーゴ(ママ)科

右頁の手前に1枚の葉を大きく画き、その奥に伸びた茎には2輪の秋海棠の花が開かんとしている。左頁には、群れ咲く10輪ほどの凌霄葉蓮が画かれている。

八月二日朝  射干 ヒアフギ
熊坂といふ謡きゝていと面白かりければぬす人の昼も出るてふ夏野哉
みじか夜や金商人の高いびき
夏草や吉次をねらふ小ぬす人
八月二日   日日草 ニチニチサウ
常緑低木状の艶やかな葉の上に、二輪の日日草が重なるように画かれている。
八月三日   なでしこ 瞿麦 花売の爺ハ之ヲとこなつトイフ
八月四日   翠菊 エゾギク 伊予松山ニテハ江戸菊又ハ「タイメンギク」トイフ又「タイミンギク」(大明菊カ)トモイフ 仙台辺ニテハ朝鮮菊トイフトゾ
同日夕刻   石竹 セキチク
八月四日夕  わすれぐさ コレハ下総結城郡ノ長塚節ヨリ送リ来シ
モノナリ 春ハ葉出ヅレトモ花咲ク頃ニ至レバ葉一ツモ無シ

右頁には、翠菊(アスター)の赤く大きい1輪と白くやや小ぶりの3輪。左頁には1本の石竹が小さく見える。この日、子規は「日本」に連載中の『病牀六尺』にこう記している。

○このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る。けふは相変らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊を写生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に画いた花はやや成功してうれしかつた。(中略)とかくこんなことをして草花帖が段々に画き塞がれて行くのがうれしい。八月四日記。
八月五日夕   みづひき草
八月十日午後  此日衆議院議員総選挙 野菊 ノギク 庭前ニ咲キアリシ一枝ナリトテ折リ来リシモノ

透明なガラス瓶に活けられた野菊の茎が曲がり、瓶から斜めに垂れ下がっている図柄である。

8月7日と9日に記された『病牀六尺』には、それぞれこうある。

○草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする。
○或る絵具と或る絵具とを合せて草花を画く、それでもまだ思ふやうな色が出ないとまた他の絵具をなすつてみ
る。同じ赤い色でも少しづつ色の違ひで趣が違つて来る。

いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいふものを出すのが写生の一つの楽しみである。神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居るのであらうか。

八月十一日朝  桔梗 盆栽の上部を写す
八月十二日朝  カハラナデシコ
八月十三日午前ヨリ午後ヘカケテ 美人蕉 ハナバセヲ
八月十六日   天竺牡丹
八月十七日午後 ロベリア Lobelia サハギキヤウ
八月十八日朝  庭前ノ土クレヲ取り写生ス
八月二十日午後 牽牛花 アサガホ

病牀六尺には、朝顔を画くまでの騒動が記されている。
「草花帖」の巻末に力作を画きたいと、陸羯南宅へ朝顔の鉢を借りにやると、何を間違えたか朝顔の花2輪をちぎって貰ってきた。腹を立てているところへ羯南が来る。暫くぶりなので麻酔剤を飲んでいろいろの話をした。正午頃羯南帰る。
すると、陸家の幼い娘2人が朝顔の鉢を持ってきてくれた。
「まだ一つだけ咲いています」と目の前に置かれた鉢には、紫の一輪が萎れずに残っている。昼食のあと写生に取りかかったが、容易にでき上がらない。娘2人は「果物帖」を見て桜桃の絵を描いている。ときどき子規の絵を覗きに来るが、朝顔ができ上がるのを待たずに帰ってしまう。でき上がったのは縦位置に画かれた一輪の朝顔。子規は蔓のもつれ何となく面白いと、気に入っていたようだ。