子規の四季  居乍らの紅葉狩      池内けい吾                                     

  十月廿八日夜深けて一枚のはがき来る。裏には、半白半紅の汽車の切符を画き、切符の文字は「上野よりにつくわう、回遊切手、往、663 日光よりうへの、回遊切手、復、663」と横に書けり、其切符の下に赤色にて紅葉三枚画き、其側に、鉛筆にて、
  もみち狩二荒にゆくとあかときのきしやのる処人なりとよむ
とゆれて書けり。はがきの表には「汽車中左千夫」とあ り。

 上は子規の随筆「人の紅葉狩」の冒頭の一節。日光行きの列車の中で書かれた伊藤左千夫の葉書が届いたのは、明治33年(1900)10月28日(日)の深夜であった。
 翌10月29日夜11時過ぎ、庵の玄関の門を閉めて家人は寝てしまい、子規は1人灯下で選句をしていた。俄に人の話し声が聞え、門前で立ち止まった気配に怪しいと聞き耳を立てると、「おやすみになりましたか」という声。家の者を起こして門を開けさせ、誰か遠来の珍客かと思っていると、玄関で「どなたかと思いました。さあお上がりなさい」「いえ今夜は遅いからここで失礼します」といった遣り取り。やっと左千夫の風邪引き声だと分かった。

   日光紅葉狩の帰りとは今迄気づかざりしぞ愚かなりし。 さるにても同行は誰れなるらん。君、足はきれいだよ、 といひながら左千夫は座敷に通るに、病室の襖を開けば、 左千夫の手には沢山の紅葉の枝を持てり。日光行の顛末(てんまつ) あらまし語りて後、これは素明君です、と紹介せられぬ。

 画家・結城素明と子規は、初対面の挨拶をする。左千夫は 「華厳の滝のあたりはもう遅いから、下の方のを折って来ま した。この楓(かへで)が最も赤いのです。これは何の木だか、赤い実が妙です」などと、2つの花瓶に山のように紅葉を挿してく れた。子規も、8年前に鳴雪翁にお供して中禅寺湖まで行った思い出を話す。当時は賞楓の客は寥々たるものだったが、 今は遊客が多く雑踏に近いという。左千夫が「今日日光から出した郵便は届きましたか」と訊くが、まだ届いていない。やがて、2人は帰った。  翌10月30日、左千夫が日光から出した郵便が届いた。巻 紙に素明が絵を画き左千夫が賛をしたもの。十ほどある絵と 賛の中に、宮内省の御用邸らしい門と門衛番屋を画いたものには、こんな賛歌がある。
  もゆるなすみ庭の紅葉照りませどみこのみことのみゆきまちかねつ    左千夫 
 11月5日の朝、一枚の葉書が届いた。表に「日光山中」とあるだけで差出人の名はない。裏を見ると、袋から色々な 玉がころげ出ようとする様子を彩色で画き、他には極めて薄い色で紅葉一枚を大きく画いている。これも日光観楓の人かららしいが、誰かは思い当たらない。玉は、青玉はもう下に落ち、赤玉はまさにこぼれんとすところ、その横には黄玉、さらに白点のある紅玉、紅点のある白玉が画かれている。どうやらこの玉の意は、この夏、岡麓宅での歌会で子規が詠んだ歌玉の戯れ歌をもじったものらしい。
 子規の歌では、香取秀真は白、伊藤左千夫は黒の玉、赤木格堂はルビー、西田巴子はトパッツ、岡麓は出雲青玉、拓植 潮音は真白赤斑、山田三子は真赤白斑の玉、さらに桃沢茂春、長塚節、新免一五坊、和田不可得の4つの玉はあたりに飛び散ったことになっている。この葉書の主はあの歌会のメンバーだと分かるが、中でこんなに巧みに絵が画けるのは茂春だけだから、これは茂春筆であろう。
 その夜、子規がガラス障子近くに臥していつものように原稿を書いていると、夜中近くにガラス戸の向こうの裏木戸で ガヤガヤと騒ぐ人声がする。聞き耳を立てると、3~4人はいるようだ。盗人騒動かと怪しんでいると、突如木戸が開かれて1人の丈の高い男が侵入してきた。鶏頭と鳥籠を廻ってガ ラス戸に迫るので恐怖で胸をどきどきさせていると、「先生」という声。見れば旅姿の格堂ではないか。「今、日光の帰りです。葉書来ましたろ」「葉書は来た。まあ上がり給 え」「いや、今夜は上がりますまい」「まあ、上がり給え」などと問答しながら見ると、左に三子、その後ろに茂春と巴子の姿も見える。潮音もいっしょだったが先に帰ったという。 格堂たちは座敷の縁側の方へ廻った。

   内の者は縁に出て何やら受け取り枕元に運び来るを見れば錦木、山鳥、さるをがせの纏ひたる枯枝などとりどりのみやげなり。皆ガラス戸の外に立ちて暇乞して向ふの木戸より出て去りぬ。再び夜は静かになりて何の音も 聞えず。
 皆の帰りて後、錦木に結びつけたる紙片を取りて見れば鉛筆にて
   錦木に山鳥の尾のかくれけり
 と一句あり。三子の書けるにや。山鳥の足に結びつけあるを解きて見ればこれも鉛筆にて
   二ツ毛ノ二荒ノ山ノ森深ク木伝ヒナキシ山鳥ゾコレ
 とあり。格堂の字なり。

 格堂たちは土産の紅葉の他に、日光から郵便で出すはずだったのを持ち帰った、と封書1通を置いて行った。日光の旅館でつれづれに詠んだ、互いの悪口楽屋落ちばかりを並べた歌と句が書き連ねてある。たとえばこんな可笑しい作だ。
格堂の吐ける焔は空焼けど拓植の騒音言問もせず
茂春も三子もしやべる啞蟬の黙もやむべき巴子ならなくに
 朝寒の格堂の顔尖りけり
 夜寒さの眼鏡光るや巴子三子
 潮音の目尻がさがる新酒かな
 巴子端に茂春はもぐる蒲団かな
読んでいくうちに、子規は噴き出しそうになった。知っている人なら必ず頷くような、楽しい歌と句であった。

  後にて聞けば左千夫が日光の旅をいと誇りかに説きて格堂にからかひしより、格堂ら俄に思ひたちて日光に行 き、紅葉も見、華厳の滝壺にも下りて、左千夫に鼻あかさんとの企を起しゝ者とぞ。はがきの画は大方分りたれど青玉の下に落ちたるのみ心得でありしが、こは麓は同行せざりしも坐(ゐ)ながらに後援をなしゝ故とぞ聞えし。
 同じ夜深に一度は表門より一度は裏木戸より歌の友に驚かされて余は2度日光の紅葉を見るを得たり。病床の臥遊これにて足りなん。
 二荒の山のもみぢを白瓶の小瓶にさして臥しながら見る

 随筆「人の紅葉狩」は、明治33年11月24日の新聞「日本」に竹の里人の筆名で掲載された。