子規の四季 68 病牀苦語 

池内けい吾 

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此頃は痛さで身動きも出来ず煩悶の余り精神も常に穏やかならんので、毎日23服の麻痺剤を飲んで、それでやうやう暫時の麻痺的愉快を取つて居るやうな次第である。考へ事などは少しも出来ず、新聞をよんでも頭脳が乱れて来るといふ始末で、書くことは勿論しやべることさへ順序が立たんのである。それでもだまつて居るのは尚更苦しくて日の暮しやうがないので、けふは少ししやべつて見やうと思ひついた。例の秩序なしであるから、その積りで読んで貰ひたい。
子規の「病牀苦語」の冒頭の1節。署名は「子規口述」となっており、病床で筆を持てない子規が口述し、妹・律が筆記したものと考えられる。
明治35年(1902)、子規は悪化する病状の中で連日麻痺剤を用いながら『仰臥漫録』『病牀六尺』などの連載を続けていた。麻痺剤については、すでに前年7月の石井露月宛の書簡に〈小生1日1度位少量麻痺剤を呑む。それが唯一の楽に候〉とあり、その頃から常用が始まっていたようだ。
「病牀苦語」は、病に苦しむ自身をこう描いている。

始めは客のある時は客の前を憚(はばかつ)て僅に顔をしかめたり、僅に泣声を出す位な事であつたが、後にはそれも我慢が出来なくなつて来た。友達の前であろうが、知らぬ人の前であらうが、痛い時には、泣く、喚く、怒る,譫言(たはごと)をいふ、人を怒りつける、大声あげてあんあんと泣く、したい放題のことをして最早遠慮も何もする余地がなくなつて来た。
病状悪化とともに、死という問題についてあれこれ考えることを述べたあと、「病牀苦語」は庭に据えた大鳥籠の歴史に移る。この大鳥籠は2年前の明治33年春、洋画家の浅井黙語が知人の庭から借用して来てくれたもので、直径5尺、高さ1丈ほどの大きさで、金網にかこまれて亜鉛の屋根のついた円錐形であった。

それを病室のガラス障子の外に据ゑて数羽の小鳥を入れて見た。その鳥はキンパラといふ鳥の雄1羽、ヂヤガタラ雀という鳥の雌1羽、それと鶸(ひは)の雄1羽とである。前の2匹の鳥は勿論渡り鳥であるが、異種類でありながら、非常に鳥の仲が可い。両方で頻りに接吻して居る。ヂヤガタラ雀がじつとして居ると、キンパラはその頭をかいてやる。よくよく見て居ると、其二羽は全く夫婦となりすまして居る。其後友達がキンカ鳥の番つがひと、キンパラの雄とを持つて来て入れて呉れたので、籠の中が少し賑やかになつた。(中略)この年の秋の頃に鶸の雌が一羽来て頻りに籠のぐるりを飛んで居たのがあつたので、それをつかまへて大鳥籠に入れてやつた。其後キンカ鳥の雄が死んだので、あとから入れたキンパラの雄でもあらうか、それがキンカ鳥の雌即ち昨今後家になつた奴をからかつて、到頭夫婦になつて仕舞ふた。其後鶸の雌は余り大食するといふので憎まれて無慈悲なる妹の為にその籠の中の共同国から追放せられた。又た其後ヂヤガタラ雀が死んだので、亭主になりすまして居つた前のキンパラは遂にキンカトリの雌に欵(よしみ)を通じやうとするので、後のキンパラと絶えず争ひをして居つた。

大鳥籠の歴史は、まず明治33年5月に岡麓が持参した小鳥3羽に始まった。その後、同年夏から右記のようにキンパラ、キンカ鳥、ヂヤガタラ雀などが共同を作ってゆく。翌明治34四年11月3日の『仰臥漫録』には〈庭前ノ追込籠ニハカナリヤ六羽(雄4雌2)キンパラ2羽(雄)キンカ鳥2羽(雌雄)ヂヤガタラ雀1羽(雌)合セテ11羽 カナリヤ善ク鳴ク〉とあり、1年後にはカナリヤも一緒に飼育されていたらしい。
どんな天気の日でも朝からチャッチャッと鳴き立てるカナリヤを愉快だと思っていた子規だが、病勢が進むにつれて、寝起きの疲れた頭脳を攪乱されるようで、うるさくてたまらなくなった。
もし出来るなら、この鳥籠を鳥と共に踏みしやいで仕舞ふて、ガラス窓の光をましたくなつて来た。ところがカナリヤの夫婦は幸いに引取手があつて碧梧桐のうちの床の間に置かれて稗よハコベよと内の人に大事がられて居るカナリヤが碧梧桐に引き取られたのは、明治35年3月20日のことであった。
そのあと「病牀苦語」は、律が碧梧桐一家と赤羽へ土筆を摘みに出かけ、次には母が同じく碧梧桐一家と向島へ花見に行って帰ったことを嬉しそうに綴る(本稿㊸「土筆摘む子規」参照)。

二三年前に不折が使い古した絵具を貰つて、寝て居りながら枕元にある活花盆栽などの写生といふことを始めてから、この写生が面白くて堪らないやうになつた。勿論寝て居ての仕事であるから一寸以上の線を思ふやうに引くことさへ出来ぬので、其拙なさ加減は言ふ迄もないが、たゞ絵具をなすりつけていろいろな色を出して見ることが非常に愉快なので、何か枕元に置けるような、小さな色の美しい材料があればよいがと思ふて、それ許(ばかり)探して居つた。

というわけで、次に子規は病床でいろいろな草花を不折に貰った絵具で写生し、それを一々歌に詠むことを試みる。その結果、タテタテの花・をだまきの花・げんげんなどを素材に、次のような歌が誕生する。

赤椿黄色山吹紫ニムレて咲ケルハタテタテノ花
桐ノ舎ガ妻ヲ迎ヘシ三年前カキテ贈リシヲダマキノ花
上ツフサ睦岡村ニ生レタル「ワラビ」ガ知ラヌゲンゲンノ花

タテタテの花は、郷里松山の子供などがタテタテコンポと呼ぶ紫色の小さな袋のような蔓草の花だという。桐ノ舎は碧梧桐のこと。「ワラビ」は、子規門の歌人蕨 真(けっし ん)(本名蕨わらび真一郎)である。
「病牀苦語」は、左千夫、碧梧桐、虚子、鼠骨らが一日交代で看護に当たってくれるなかで、碧、虚両氏と俳句を談ずることで終わっている。
「病牀苦語」は、明治35年4、5月の2回にわたって「ホトトギス」に掲載された。