曾良を尋ねて (100)     ─佐渡島と大久保長安に関する一考察 Ⅰ ─        乾佐知子

 佐渡を語るとき初代金山奉行として赴任した大久保長安との関わりを述べなくてはならない。だがその前に前稿で述べた芭蕉の「荒海や」の句について補足しておきたい。
 この句が詠まれたのは一般的には出雲崎であろうといわれている。芭蕉自身が綴った俳文「銀河の序」でもそのようにいっているが、研究者達の見解ではこの時期、佐渡島は絶対にそこからは見えないという。従ってこの句は直江津から能生に至る海岸線の途中のどこかで詠まれたものと考えられる。恐らく7月4日に出雲崎滞在中に構想を練り、直江津で発表したものであろう、と推測されている。7月7日は陽暦では8月21日で、この時期は日本海は穏やかでめったに荒れることはないし、天空に天の川が見えることもないらしい。つまりこの句は芭蕉の見事なイマジネーションの句なのだ。

 佐渡島に対する大いなる畏敬の念が、見えない島影を捉え、雄大な天の川を仰ぎ、荒々しく険しい海に向かって哀感を込めた渾身の一句となって結晶したものといえよう。
 次に大久保長安について述べてゆきたい。今回長安を取り上げるのは、曾良と多少なりとも縁を感じるからである。江戸時代の徳川体制下において、この人ほど波乱に満ちた人生を縦横無尽に生きた人物はいないのではないか。
 大久保長安の出生については謎も多いが、天文14(1545)年、猿楽師大蔵太夫の次男として生まれ金春流の後継者とされている。
 しかし代々猿楽師の家系図によれば、長安の名は「秦長安」として記載されており、大陸から渡って来た秦氏の末裔ではないかといわれている。ちなみに能楽の家は代々秦姓を名乗っており、世阿弥も本名は秦氏安である。

 1564年頃に父に伴って兄と共に甲斐の武田家に赴く。やがて一家は武田信玄に才能を認められ士分に取り立てられる。その兄は長篠の戦いで戦死した。その後長安は蔵前衆となり有能な行政手腕を発揮して、やがて金山との関わりを持っていった。
 しかし武田家が天正10(1582)年、天目山の戦いで敗れ滅亡すると、長安は家康に取り立てられ本来の卓越した能力と金山銀山経営の鉱山開発に力を発揮して一気に出世していった。長安三十七歳頃のことである。
 天正18(1590)年、家康の関東入国に伴い代官頭の一人となって八王子に赴任する。ここでは八王子千人同心をつくり甲州境の警備を強化し、財政手腕のみならず街道整備やら築城工事にもかかわった。また検地により八王子の財政は一気に豊かになったという。
 特に秀れていたのが鉱山の開発で、石見銀山、佐渡銀山、伊豆金山など各地の金銀山で奉行として驚異的な成果をあげ、家康を狂喜させたという。
 次回は曾良との関わりについて述べてゆきたい。