曾良を尋ねて (102)           乾佐知子

  ー曾良と大久保長安との関わり(金沢から山中温泉へ)―

 前稿二回にわたって述べた大久保長安が没してまもなく400年になる。史料から伝説まで諸説あり、実に波乱に渦ちた生涯であったといえよう。後世における彼の風評は必ずしも好ましいのもばかりではないが、得てして歴史の真実を追究してゆくに従って、それらはほとんど権力者側からの見解であることがわかる。仮に正義の為であったとしても、権力に盾突く者は反逆者の烙印を押され、歴史の世界から消されていく。〝勝てば官軍〟なのだ。しかしその敗者の中にも、時代の渦に巻き込まれて無念の涙を流した有能な藩主や識者がいかに多くいたことか。徳川幕府創業期において特にその傾向は顕著である。
 大久保長安の死にまつわる憶測もさまざまあるが、幕府内での政治権力における闘争や西欧諸国への対応、更に最も脅威とする外様大名らの反乱等が相まって結果的に遺族に対する処分の過酷さとなって現れたといえよう。
 これらの歴史の経緯をみるに、当時の松平忠輝の存在は実に微妙な立場であった。ましてその遺児として曾良が存在するとなれば、幕府としては安易に見逃すわけにはいかない。つまり決して無事であるという保障はないのだ。
 従って曾良の存在を示す史料が非常に少ないことも頷ける。ひたすら神道家として身を立て、わずかではあるが芭蕉と関わった俳諧、特に『奥の細道』での活躍は彼の優秀な才能を十分に察知することができる。
 その「細道」の旅もいよいよ後半にかかり7月15日金沢へ入った。しかしこの地で会うことを楽しみにしていた一笑の訃報を知る。
 22日に一笑の兄による追善供養の会が願念寺にて行われた。
塚も動け我が泣く声は秋の風
 芭蕉の句の中でもこれ程心情をストレートに出した哀悼句は他にない。
 「一笑」は姓は小杉、金沢で葉茶業を営んでいたので「茶屋新七」と呼ばれた。わずか三十六歳で死去。芭蕉達もその死を知らなかったため悲しみは深かったのであろう。金沢では待ちわびた多くの蕉門グループに歓待された。
秋深し手毎にむけや瓜茄子あかあかと
日はつれ面も秋の風
しをらしき名や小松吹く萩すすき
 この地の多太神社に詣でた。斉藤実盛の甲や錦の切が蔵されている。その昔源氏の義朝公から頂戴したものとか。実盛が討死の後、木曾義仲が祈願状文に添えてこの社に奉納された。
むざんやな甲の下のきりぎりす
 実盛が白髪を染めてかぶった甲のほとりに、きりぎりすが微かな声で鳴いている。実盛の亡魂が虫と化して現れたかとも思われる。
 8月5日、山中温泉へ行く途中に三十三ヶ所霊場の一つ那谷寺に立ち寄る。
石山の石より白し秋の風
 秋風を「色なき風」というが、この句はまさに秋風は白いものという感覚で捉えた索漠とした句である。