曾良を尋ねて (104)           乾佐知子

  ー金沢から山中温泉へ Ⅱ (二人の別れ)―

  深川を出発してから120日余り、ここまで苦労をともにしてきた曾良がこの山中温泉で突然先に出発するという。しかしこの行動が最初から予定されていたものか、或いは旅の成り行きで決まったものかは分からない。「曾良は腹を病みて」とあるが、その点については現在では〝先に立つ為の口実であろう〟とする見解が多い。弱っている筈の者が先に出発するのも解せないし、また出発した後の曾良の健脚ぶりはとても病人とは思えないのだ。
 また、その他の原因としては北枝の存在がある。それまで「細道」には彼に関する記述は全くなく、読者はてっきり曾良と二人きりで泊まっているものと信じさせられていた。ところが金沢から北枝という人物がずっと同行していたことは前稿で書いた。
 「細道」でも大分あとの汐越の松や天竜寺を見た後に書かれている。

  丸岡天竜寺の長老、古き因ちなみあれば尋ぬ。
  又、金沢の北枝といふものの、かりそめに見送りて、
  此処までしたひ来る。
  所々の風景過さず思ひつづけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。
  今既に別れに望みて
  物書て扇引さく余波哉 (余波=なごり)

三人で温泉に八泊している間も、北枝は芭蕉から実に貪欲に教えを乞い、それを丹念に記録していた。「山中問答」と称した「山中集」がそれである。金森敦子氏もその著書で〈羽黒山では呂丸に「流行」を解いたが「不易」はない。しかしこの『山中問答』には、不易と流行、虚と実、さび、しおり、ほとみ、など全体はごく短いものだが芭蕉俳諧の核心に触れるものばかりである。この稿本は後に金沢の某の手に渡り、天保9年(1839)に「三四考」に収録されて刊行された。実に149年後のことだった〉と述べている。
 曾良はこの七日間の日記には連日「快晴」か「雨降る」程度のことしか記していない。研究者の中には具合が悪くて日記を書く気力もなかったのであろう、という説もあるが、私はむしろその逆であったと推測する。
 薬効の秀れた温泉での長逗留は、二人にとって今迄の長旅の疲れを癒やし、更にこれからも続く旅に備え、充分な鋭気を養う絶好の機会であったろうと思う。その間には当然、今後の旅に関わるであろう客人達の出入りもあり、別行動となる由に綿密な打ち合わせがなれていたものと推測される。
 本来律儀な曾良が師匠の芭蕉を置いて一人で行くわけはない。ところが北枝という面倒見の良い若者が同行してくれるという。この先は等栽や路通とも連絡して今後のことを頼んでおけば、曾良としては仕事の大半の目的を終えた今は安心して出発できると判断したのであろう。
 この年北枝は二十九歳位で本業は刀剣を研磨する「研ぎ師」であった。腕もなかなかであったという。
 曾良の日記によれば、8月5日芭蕉と北枝が昼頃小松に向けて出立した後、即刻一人で次の目的地である大聖寺へ向けて出発したとある。