曾良を尋ねて(98)             乾佐知子

─ 越後・村上での曾良の一考察 Ⅱ  ─

   6月19日(陽暦8月14日)この日は、良兼の三回忌にあたっていた。几帳面で信義に篤い曾良は、当然この日に合せて村上を訪ねたことがわかる。
 故良兼の嗣子榊原帯刀直栄は、父の家老職を継いで二千四百石の緑高であった。曾良は午前中にその屋敷に出向き帯刀に目通りしたものと思われる。その時に帯刀から百疋の餞別を賜った。現在のお金に換算すると、およそ三万円位であろう、といわれている。
 身分の格差に厳しかった江戸時代に、単なる一家臣が藩の筆頭家老に会ったり、餞別を渡されることなど絶対に有り得ないことだった。この一件からも曾良の隠された身分がいかに高かったか、を推測することが出来る。
 村上家にこれほど優遇される曾良という人物が只者でないことがわかる。

 その日帯刀の屋敷から戻った曾良は、喜兵衛と友兵衛に案内されて村上家の菩提寺である光栄寺を訪れた。ここには良兼の墓があった。良兼の法名は「大乗院殿法嚴一燈居士」で良兼の俳号の「一燈」が使われている。
 曾良が生前の良兼と村上でどのような生活を送っていたのかは分からないが、三回忌に合せてみちのくの寺にまで墓参に来るからには、決して浅からぬ〝えにし〟があったものと推測される。肉親との縁に薄い曾良にすれば、兄弟のように愛しく思っていた良兼との生前での想い出に無念の涙が止まらなかったのではあるまいか。
 又曾良に対する地元の人達の気の使いようから判断しても尋常ではなく、曾良がこの地で以前はどのような待遇でいたのか推察してみたい。綱吉の代に吉川惟足が「神道方」という要職にあり、幕府から篤く登用されていたことは以前説明した。

 二十歳代に伊勢長島藩を致仕した曾良が、岩波庄右衛門正字として吉川惟足の屋敷に通い神道の修得に励んでいたことは周知のことである。吉川惟足は曾良より三十三歳年上で、父と子ほどの年齢差があった。
 曾良が「細道」に出発する直前に、布団や日用品の類を惟足宅に預けているのだが、その際依頼する主旨の手紙に「吉川源十郎殿」という宛名をつかっているのだ。親子ほど年の差のある師匠に対して「源十郎殿」とはいかにも同格の友人に出すような書き方ではないか。相手は幕府直属の格式ある人物であるのにも関わらずである。これこそ曾良の本当の身分を暗示するものと思うのだが如何であろう。 

 岩波庄右衛門と曾良は、常に共存しており出生についても忠輝に頼まれればたとえ藩主といえども疎かには出来ず、扱いにはかなり気を使っていたと思われる。
 これで10年以上仕えていた長島藩の家臣の名簿に岩波庄右衛門正字の名前が載っていなかったという疑問にも納得がいく。
 彼が一人前の「神道家」であったことも勿論だが、それ以外にも松平家に格別な待遇をもって迎えられていたことが、これ等の検証から明らかといえよう。