曾良を尋ねて 81 乾佐知子

松島における「奥の細道」と「曾良隨行日記」との矛盾

前稿の までは「奥の細道」の内容に従って解読してきたが、今回より少し視点を変えて曾良の「隨行日記」に添って話を進めていきたい。その理由としては芭蕉の「ほそ道」の記述と曾良の日記とは、明らかに矛盾する点が認められることと、当然その裏に隠されているであろう歴史の事実とその背景について以前の史実に遡って検証してゆきたい。
九日に松島に渡った芭蕉たちはおそらくここで、二、三泊してゆっくりと月を愛で、翌日句を瑞巌寺に奉納する予定であったろうと思われている。「松島や」の曾良の句が十日の作となっていることからもそれがわかる。
しかし曾良の日記によれば、九日の午の刻(昼の十二時頃)に松島に着き、一服後すぐに瑞巌寺に詣で「不残見物ス」とある。その後に八幡社を五大堂を巡り、夜に松島の宿に入った。
そして翌十日、二人は急遽松島を発ち一気に十三里を走破しているのだ。この部分は日記の中でも有名なので紹介しておきたい。
十日快晴。松嶋立。馬次、高城村、小野、
石巻。仙台ヨリ十三里余。小野ト石ノ巻
ノ間、矢本新田ト云町ニ而咽乾、家毎ニ
湯乞共不ν与。(刀 さしたる)道行人、年五十七、八、
此躰ヲ憐テ、知人ノ方ヘ壱町程立帰リ、
同道シテ湯を可ν与由頼。又石ノ巻ニテ新
田町四兵ヘと尋、宿可ν借之由云テ去ル。
名ヲ問、ねこ(根古)村コンノ(今野)
源太左衛門殿。如教(おしえのごとく)、四兵ヘヲ尋テ宿ス。
(後略)
早々に松島を発った二人が十三里を歩いた後に咽が渇き、近所の家毎に湯を所望するが総て断られた。そこに中年の武士が現れ、湯を与えられて次の宿場まで紹介して去ったという。
この特異な出来事については、その原因について研究者の中でもさまざまな見解がなされている。二人の僧に対する異常なまでの村人達の対応は、そこには恐らく仙台藩からの圧力があったと思われ、突然現れた中年の武士は大垣藩の者であろうと想像がつく。
もし曾良のこの日記がなかったら、松島は芭蕉の優雅な筆致で風光明媚を誉め称え、無事に仙台を通過したと後世の人たちは思い込む筈であった。ところが曾良の日記の発見により「ほそ道」との矛盾に俳壇は驚いた。
実際は十一日にはすでに二人は石巻を発っているというのに「ほそ道」ではこの日瑞巌寺に詣でたことになっている。つまりここで二日のズレが生じているのだ。文中にはあまり日を明記しない芭蕉が、あえてこの部分の冒頭にわざわざ十日、十一日と記しているのも気になる。
瑞巌寺に詣でた際に恐らくここで何らかの不都合が生じていたものと考えられる。
俳誌「麻」の編集長で「芭蕉革命」を連載しておられる松浦敬親氏によれば、その原因は九日の曾良の日記に「不残見物ス」とあったことである、と断じている。氏の論評も含め、この言葉が特に重要な意味を持っていることについて説明してゆきたい。
実は瑞巌寺の山内には三慧殿(正宗の嫡孫の光宗の霊廟。光宗は十九歳の若さで江戸城内で急死。その英明さを恐れた幕府が毒殺したという)があり、その西隣には天麟院があった。この光宗の事件や天麟院の背景について二人は克明なまでに知っていた。
この天麟院こそ正宗の長女五郎八(い ろは)姫(1594─1661)のために創建されたものだった。五郎八姫が元松平忠輝の妻であったことは七年前の拙稿でも触れている。
もし曾良が忠輝の「落し子」であったとしたら、五郎八姫は曾良の義母にあたり、その曾良が直接参拝に現れたとなれば、仙台藩に緊張が走ったとしても当然であろう。次回は五郎八姫の一子との対面について伝えたい。