曾良を尋ねて (90)  乾佐知子

─伊達騒動と酒井雅楽頭忠清─

   この刃傷事件は、甲斐が突然の乱心により酒井邸の審問の場で抜刃し、安芸に刃傷に及んだという説が一般論として伝わっている。
 しかし、結果は甲斐の他にも事件には関係のない伊達藩の者ばかりが斬られており、甲斐が仕掛けた事件としては解せない。
 酒井家としては、甲斐一人を取りおさえれば済むものを、なぜ無関係な家老達まで斬らねばならなかったのか。呼び出されたのは甲斐と安芸の他に柴田外記、古内志摩、それに聞番として蜂屋六左衛門の五人である。首謀者とされる甲斐と安芸の他に外記と六左衛門が犠牲となった。
 これには酒井家の家臣が加わっており、重傷の外記が「雅楽(うた)殿しゆう、うろたへ、さんざんに斬り、こなたのしゆうに斬られ候」と医者の玄亨に告げた後六十三歳にして果てた。
 小林清治氏は、心労を重ねた甲斐が興奮のあまり発作的に行為に及んだのではないかと述べているが、しかしこの場で無謀な行動を取れば己や藩がどうなるか、甲斐自身が一番良く知っている筈である。その為に十年以上も忍耐を重ねてきたのだから。しかし甲斐のその時の無念であっただろう本心を知るすべはない。
 山本周五郎氏もこの点を疑問に感じられて『樅の木』の発行に至ったのではなかろうか。 つまりこの事件は酒井雅楽頭忠清の陰謀であったことを問いたかったのではあるまいか。 『樅の木』に依れば、甲斐に兵部との密約を知られた酒井忠清が仙台藩の五名を私邸に呼 び寄せ、全て殺害せんと刺客を忍ばせておいて実行に移した、というのだ。
  「忠清は十余年前仙台藩を二分することを兵部にせがまれて密約したが、後に昨今の幕府の状態を考えるとそのようなことは無理であることを察し、今はこの密約を実行に移す 気持ちは失せていた。しかしこの密謀の存在を知っている者が伊達藩内にいることを知った忠清は愕然とした。あの密約書をこの審問の場で出されては万事休すである。このことを知っているであろう伊達藩の者は生かしてはおけない、と全員の殺害を計画した」と書いている。とすれば審問の場所が板倉邸から突然酒井邸に変更されたわけも納得できる。 五人のうち四人までが殺害されたのも無理はない。
 甲斐はとうとう最後まで密約書を出す事ができぬまま〝自らの乱心〟と言い残して果てたという。
 後世の研究者達はこのようなことは〝有り得ない〟という方達もいるが、宮城教育大学教授で仙台藩研究を専門とされる平重道氏は、「歴史の史料というものは往々にして己の不名誉な関係資料は整理したり破棄したりする場合が多い。事件に勝利した側の資料はよく保存されるが、敗北した側の資料は消滅している為に、事の善悪を判断するときは慎重を 期する必要がある。しかも反対派は処分され、騒動の一切の責任を負わされ、悪玉に仕立てられるのが通例である」と述べている。 
   とすれば元来温厚で忠義の志の篤い原田甲斐が必要以上に悪玉にされた可能性もあると 考えねばならない。山本周五郎氏の『樅の木』が史実とは正反対の小説を書き、後世多くの人々に感動と共感を与えたのもうなずける。
   この騒動のまとめにあたり、平重道氏の著書である『伊達騒動』より引用したい。
   この事件がここまで激化するについては十数年に渡る藩政の内部抗争対立が積み重なっており、その原因は一朝一夕に形成されるものではない。しかも、その対立は単なる善人、悪人の私的な野望に基づく行動でなく、藩体制自身の中に原因を持つ権力闘争であるから敗者必ずしも悪人でなく、 勝者必ずしも善人とばかりはいえない。そんな単純な事件ではないのである。