春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

はいかい漫遊漫歩

はいかい漫遊漫歩(100)(101)2018年12月号

戦争が終って何年も経ってのことだが、パリでぼくはあるきっかけから、フジタの信頼を受けるようになった。身近に接してみると、この巨匠はおそろしくお人好しだ。それは信じられないくらいで、蔭で夫人がだんだん人嫌いになるのも分かる。あんなにも利用されたり、傷つけられ、金銭を騙し取られるのを見ていると、ぼくでさえ、いらだつ。 日本国籍を返上、フランス国籍を取ったレオナール・フジタは、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語っていたという。 〈 私は、世界に日本人として生きたいと願ふ、それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだらうと思ふ。〉(藤田嗣治『随筆集、地を泳ぐ』より)

はいかい漫遊漫歩(98)(99)2018年11月号

雨模様の平成30年9月1日、上野の東京都美術館に出かけ、「没後50年 藤田嗣治展」を見た。主催者が「史上最大級の大回顧展」と銘打つに相応しい120点に及ぶ名作、力作を揃えた見応えある回顧展だった。コラム子を上野に駆り立てたのは、エコール・ド・パリの寵児のひとりであった画家の半世紀を越える優れた画業を辿るだけではなく、出品されている二点の100号、200号の戦争記録画の大作「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」をこの眼で実見することだった。 二つの大作は、どちらも茶褐色の暗い色調の画面いっぱいに前者は日本兵、後者は一般人の男や女、子供、嬰児が犇めき命を絶つ壮絶な地獄絵図だった。その前に立った来場者の誰もが息を止め、後ずさりする凄惨な画面。この一角だけ前に立った人の多くが急ぎ離れて行った。

はいかい漫遊漫歩(96)(97)2018年10月号

本コラムの39話(平成28年5月号)と70話・71話(同29年9月号)で紹介した “ランドセル俳人 ”小林凜君も高校生になり、俳句・エッセイ集『ランドセル俳人からの「卒業」』(ブックマン社刊)を平成30年4月、上梓した。 凜君が3年生のとき、祖母の郁子さんが、当時の校長に不登校になった孫の様子を伝えたくて俳句を見せた。〈 校長から思いがけない言葉が返ってきた。「俳句だけじゃぁ食べていけませんで」そういって、笑ったという。祖母は帰ってきて、「8歳や9歳で将来の仕事がきめられますか」と母に怒りをぶつけた。〉

はいかい漫遊漫歩(94)(95)2018年9月号

関東大震災から95年を数える。この震災に出合い、世相の混乱ぶりを記憶にとどめている人々は、すでに世を去った。 関東大震災をリアルタイムで体験した詩人金子光晴は、『絶望の精神史』で〈 この災害によって、何かが大きくこわれた。その何かをはっきりさせることが、重大なことなのだ。〉と朝鮮人虐殺の実相に触れて書く。

はいかい漫遊漫歩(92)(93)2018年8月号

 SF人気作家、眉村卓が、がん闘病中だった愛妻に聞かせるために毎日1話ずつ約5年に渡って書き続けたショートショート『妻に捧げた1778話』(新潮新書 初版04年刊)が、書店で平積みの“第2次ブーム ”になっている。 新書は1778篇から19篇を選び、妻の闘病生活を含む40余年にわたる結婚生活を振り返るエッセイを加えた〈 風変わりな愛妻物語〉仕立て。 平成30年8月15日は73回目の終戦記念日。コラム子の怖ろしくも奇妙な体験。

はいかい漫遊漫歩(90)(91)2018年7月号

「草苑」を主宰し、第1句集『月光抄』から最終句集『草影』まで10句集と俳書、随筆集など多くの著書を残して平成16年(2004)に90歳で逝った桂信子。草苑」創刊と同時に参加、師事し、8 年後から編集長を務めた宇多喜代子が、34年の長きを師に寄り添った視点で選んだ104句に句解を付し、刊行した『この世佳し――桂信子の百句』(ふらんす堂)を引きながら書く。 〈 窓の雪女体にて湯をあふれしむ 〉について同性の宇多の句解は、〈 「あふれしむ」が、若々しい女体の量感を感じさせる。窓の向こうは雪、そんな冬夜のひとときである。戸外は静かなる時間であるのに、浴室には湯をつかう生命感にみちた動の音が溢れている。〉と記す。

はいかい漫遊漫歩(88)(89)2018年6月号

反写実的、幻想的、暗喩、提喩、換喩、多彩なイメージ表現で寺山修司、岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と呼ばれた歌人、塚本邦雄。日本現代詩歌文学館(岩手県北上市)で開催された「塚本邦雄展」の折、収蔵の遺族寄贈の遺品の中から『火原翔 俳句帖』と表記された大学ノートの自筆句稿が館員によって偶然発見された。

はいかい漫遊漫歩(86)(87)2018年5月号

平成30年2月20日、98歳で逝った金子兜太の糟糠の妻であり、俳句の同志だった皆子。昭和63年に第1句集『むしかりの花』刊行後、右腎全摘手術をした平成9年に第2句集『黒猫』、兜太が『東国抄』で第36回蛇笏賞を受賞した同14年に第3句集『山査子』、死の2年前の同16年に第4句集『花恋』を上梓。

はいかい漫遊漫歩(84)(85)2018年4月号

絶滅のかの狼を連れ歩くーー三橋敏雄の第二句集『眞神』百三十句中の一句である。おおかみに蛍が一つ付いていたーー造型俳句、定住漂泊を唱え、反戦平和運動の側に居続けた金子兜太の句。

はいかい漫遊漫歩(82)(83)2018年3月号

東大寺二月堂(奈良)の修二会(3月1日―14日)にちなんで書く。二月堂で行われる修二会の「お水取り」は、若狭(福井)から二月堂脇の良弁杉の根方に遠敷(おにゅう)明神を勧請、、大松明を持った十一人の練行衆(僧侶)が、明神の閼伽井屋(あかいや)の若狭井から香水を汲み、堂内に運ぶ儀式。 詩人、三好達治には、俳人としての隠れた顔があった。俳句を始めたのは詩作より早く、中学時代に『ホトトギス』を購読、独学で作句に没頭、二十歳ころ句作ノートは千句を超えた。俳人を名乗ることはなかったが、伝統的な歌の調べや抒情性が詩に活かされている。

はいかい漫遊漫歩(80)(81)2018年2月号

現代俳句協会の第37回現代俳句評論賞(二〇一七年)を受賞した松王かをり(「銀化」同人)の「『未来へのまなざし』―『ぬべし』を視座としての『鶏頭』再考―」は、文語文法を手掛かりに子規俳句〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉の深層に迫る画期的な俳論である。

はいかい漫遊漫歩(78)(79)2018年1月号

「人間宣言」をしたのは昭和天皇だが、「肉食宣言」は、祖父の明治天皇。宣言の一年後の明治六年にレストラン「精養軒」が開業、四年後には不忍池畔に上野精養軒も店を開き、現在は本店として営業を続けている。 蕎麦の実の外皮を取り除いた芯だけでつくったのが「ざる」で、外皮のまま挽いた粉を使ったのが「もり」である。外皮を取り去る手間と、蕎麦の実の分量が少なくなるだけ、「ざる」のほうが値段が高くなる。街のごく普通の蕎麦店では、刻み海苔がトッピングされているのが「ざる」、乗っていないのが「もり」で、客もそれを承知で注文していると言っていい。

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