春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

はいかい漫遊漫歩

はいかい漫遊漫歩(70)(71)2017年9月号

 聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明さんが「生涯現役」を貫き、百五歳の天寿を全うして一月経つ。六年前から“ランドセル俳人”で知られる小林凜君(現在十七歳の高校生)と俳句を交えた爽やかな交流を続けていた

はいかい漫遊漫歩(68)(69)2017年8月号

八月や六日九日十五日、八月の…、八月は…の三句は、毎年八月になると多くの人々に同じ句が詠まれ続けている。 日中戦争が始まった昭和十年代、新興無季派の戦火想望俳句が登場。若き三橋敏雄は戦火想望俳句の期待の星として注目された。

はいかい漫遊漫歩(66)(67)2017年7月号

二枚看板の「糞土師」を誇り高く名乗る男のもう一枚の肩書はキノコ写真家、伊沢正名。世界でもっとも本気にウンコとつきあう男のライフヒストリーを通して、ポスト・エコロジー時代への強烈な問題提起となる記念碑的奇書。目から鱗、尻から雲古。感動の記録書。

はいかい漫遊漫歩(64)(65)2017年6月号

芥川龍之介(俳号:我鬼)は、「芭蕉雑記」で〈 芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集なるものも悉く門人の著はしたものである。〉と書く。指摘のとおり芭蕉には、自ら板行した句集、自ら執筆した俳論、俳書がない。「日本の古典の代表的な紀行文」と言われる「おくのほそ道(奥の細道)」ですら、芭蕉自身は公開する気がなかったという。

はいかい漫遊漫歩(62)(63)2017年5月号

愛妻へ貧しさを詫びる反語句〈 無禮なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 〉をタイトルにした初句集『無禮なる妻よ』が出たのは、昭和二十九年、夢道五十一歳のときだった。

はいかい漫遊漫歩(60)(61)2017年4月号

みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの ハッパふみふみ

はいかい漫遊漫歩(58)(59)2017年3月号

三島由紀夫は 昭和15年には、母方の祖父の友人である詩人、川路柳虹に師事、俳句誌『山梔』に俳句と詩の投稿を1年半ほど熱心に続ける。このときから綽名をもじって平岡青城の俳号を名乗り、小説『潮騒』を発表する昭和29年ころまで俳句を詠んでいた。 俳句誌『俳句界』編集長の林誠司さんが、ブログ「俳句オデッセイ」で披露しているエピソード。〈 …兜太がまだ壮年の頃、師である加藤楸邨へ年賀状を送った。年賀状を読んだ楸邨は驚いた。そこには新年の挨拶があり、その脇に「男根隆々たり」という言葉が一筆添えられていたのである。…

はいかい漫遊漫歩(56)(57)2017年2月号

“俳句の神様 ”が一人の俳趣味の男を動かし、俳句史から抜け落ちるところだった“放浪俳人”井上井月を発掘した。男の名は、長野県伊那出身の文人医師、下島空谷(本名勲 1870―1974)。1927年7月に自死した芥川龍之介を看取った主治医である。ちなみに芥川は死の直前、空谷宛てに〈自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る〉と書いた色紙を遺した。

はいかい漫遊漫歩(54)(55)2017年1月号

改革や革新を大きなうねりに乗せるには、インパクトのあるキャッチフレーズが必要だ。俳句革新をめざした正岡子規が使った“殺し文句”は〈 天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並み調といふ 〉だった。

はいかい漫遊漫歩(52)(53) 2016年12月号

急逝の数時間前に筆を置いた文字通りの絶筆を巻末に収めた野坂昭如さん最後の著書『絶筆』(新潮社刊)は、闘病十二年余の間に口述筆記で書き上げた三つの公開用リハビリ日記と九編のエッセイからなる379ページに及ぶ“大作 ”。

はいかい漫遊漫歩(50)(51) 2016年11月号

詩人、清水哲男さんが1996年に開設したウエブサイト歳時記『増殖する俳句歳時記』が20年を節目に終了。搭載句7306句。一般的な俳句歳時記は季語の短い説明と例句の校正だが、『増殖する俳句歳時記』は搭載句全句鑑賞付きが特長。

はいかい漫遊漫歩(48)(49)2016年10月号

映画「男はつらいよ」の寅次郎俳優、渥美清(俳号風天)の句碑〈 お遍路が一列に行く虹の中 〉 JR松山駅の駅頭に正岡子規の〈春や昔十五万石の城下かな〉の大句碑

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