「晴耕集・雨読集」9月号 感想  柚口満

畦豆蒔く鍬の角もて穴うがち 池内けい吾

 この句を一読して田舎育ちの自分にとっては何十年も前の光景が一瞬にして蘇ってきた。何故そんなに鮮やかに思い出したかというと中七の「鍬の角もて」という具体的な行為の表現が脳の中枢を著しく刺激したからである。
 田植えの前の田んぼの畦作り、その丁寧に塗られた畦を鍬の角でちょんちょんと穴をあけて大豆を蒔くのである。農作業を知らない人にとったは見過ごしてしまう句かもしれないが、その独特な行為を描いて燦然と輝く印象深い句に仕立て上げた。

湯上りのほてりをさます蛍狩り堀井より子

 現在の環境下では蛍を見るのもなかなか難しいなか蛍狩りをするには山間の土地に行かなくてはならない。そういった意味合いでいうと掲句はどこかの静かな温泉地などが想像される 
 ゆっくりと湯に浸かったあとの蛍見物、身も心も心地よく解き放たれた状態で見る蛍の光はこの上もなく贅沢なひとときである。体のほてりを醒ましながらの蛍狩り、命の洗濯というのはこういうことをいうのであろう。

時の日の駅を出て散る人の波 生江通子

 6月10日は時の記念日、時の日である。そもそもは天智天皇在位の671年に漏刻とよばれる水時計が設置されたのを記念にして作られた日。人間の生活するなかで時間の大切さを考え尊重しようとする日である。
 人間は大なり小なり常に時間を念頭におき毎日の行動を起こす。この句の作者は時の日に最寄りの駅から吐き出される人の波を見ているうちに、その人々の動きはそれぞれの時間の制約によって流れていると感じた。この世からいま、時を知るものが一切なくなったと仮定すると誠にそら恐ろしい。

人を見る人に見らるる網戸越し杉阪大和

 俳句という文芸、その五七五の短詩型ゆえ限られた文字の中で詠みたいと念じてもなかなか纏まらないことが多い。
 その点、この網戸の句は私が常に思っていたことを見事に表現していてしかも類想感がない。網戸の出現で夜も蚊帳の必要がなくなったのだが一つだけ欠点があるのを御存じだろうか。それは昼は家の中から外が丸見えで夜は外から中がよく見えることである。その状態を作者は上五から中七にかけてずばっと本質を喝破したのである。

雲に身をゆだねて池のあめんぼう高野清風

 アメンボ科の水生昆虫あめんぼう。体長は二、三センチで三対の肢で池や沼、小川の水面をすいすいと滑走するさまは多くの俳人の好みの対象になる。
 この句も池に遊ぶあめんぼうを凝視して作られた一句。おりしも夏のボリュームのある雲が水面に映り、その雲にあめんぼうが悠然とその身を任せていたという。水面の大きな雲とごく小さな動物、あめんぼうの対比がいかにも俳諧味があり自然界の摂理の大きさまでをも表している。

苦しみの様に蚯蚓の乾びをり沖山志朴

 都会育ちの人は蚯蚓を敬遠しがちであるが、自分は小さい頃から魚釣りの餌とした親しんできたので手で恰好な長さで千切ったりしたし、あの独特な泥臭い匂いも平気である。
 それはさておきこの句はその蚯蚓の死骸を詠んでいる。この句の眼目は「苦しみの様に」と捉えた観察眼である。蚯蚓の苦しみの様が人間に判るかといえばそれは見た人の感性次第、心に迫るなにかの様子が作者の琴線に触れたのであろう。

編笠のひねもす傾ぐ蓴舟斎藤耕次郎

 蓴(ぬなわ)とは蓴菜(じゅんさい)のこと。茎や葉裏はゼラチン質に覆われ巻いた若葉は食用として吸い物などに入れて食べる。
 林翔の句に「吹かれ寄るごとく相寄り蓴舟」があるように蓴菜を採る小舟が群がるさまは夏の風物詩で、掲句もその光景をよく描写している。

青田風鉦打ち鳴らす野辺送り大塚禎子

 亡くなった人を火葬場などに送る野辺送り、今でも農村地域ではその風習が残っている。青田のなかの道を静かに進む葬列が印象的だ。
 白い幟が青田を吹き抜ける風にはためき、澄んだ鉦の音が故人を手厚く葬るように鳴り渡る。当地で生涯を閉じた人への鎮魂の儀式。

雲海の暗き崖へと崩れけり山岸美代子

 飛行機に乗っても雲海は見られるが俳句的にいう雲海はやはり高い山から見下ろす雲の海こそがその本意だと思いたい。
 この句は四囲の山々に包まれた雲海を詠んでおり、その一端の波打ち際を暗き崖と見立てているのが非凡、渦巻く波がダイナミックに躍動する様が目に見えるようだ。

緑蔭に入りて話は初めから清水恵子

 緑蔭と似た季語に木下闇があるが、木下闇に比して緑蔭は印象が明るく木々の青葉や若葉が気持ちよく感じられ誰もが憩いたくなる場所である。
 この句は昼間の暑さの中での中途半端な会話を緑蔭に入ってから仕切り直しをしたという。椅子に座り、美味しいお茶を飲んで女同士の話が一から始まる。

風鈴の音に日暮れの来てゐたる鈴木幾子

 感覚的、しかも自分の感性に訴えた句である。この句はいわゆる写生句ではないが一読して読んだ人を立ち止ませるものがある。本来、風鈴は朝から昼間、夕方まで同じ音を奏でるものであるが作者にはその音が日暮を告げてくれるというのである。深読みすれば夕風のせいかもしれないがそれも陳腐な句評であり、考えさせたところで勝負あり。佳句になった。

木耳や人に聞こえぬ森の息田中里香

 木耳は「きくらげ」と読む。文字が示すように茸の一種で人の耳に似ていて質は水母状である。
 この作者の頭の片隅には「木耳」という面白い字面があった。森の中でみつけた木耳、もしかしたら人には聞こえないこの森の吐息を茸は聞き分けているのでは、と思ったのだ。発想の妙が御手柄である。

父の日や振子時計の太柱中道千代江

 母の日や父の日を季語にした俳句は一見与しやすそうに感じられるが、いざ作るとなるとこれがなかなか難しい。感情移入が強くなるせいかもしれない。その点この句は、ものごとを言い過ぎず太い柱にかかった振子時計と父の日だけの取り合わせを淡々と詠んだだけだ。それだけで父親像がみえるのが俳句の肝要さ。

頂きは一際白し雲の峰山本松枝

 夏を代表する積乱雲、入道雲を山にたとえて雲の峰と呼ぶ。雄々しくも勇壮な呼び名だとつくづく思う。
 雲の峰は一見、白い雲の塊であるがよく見ると太陽の光と相まって様々な白を提示する。作者は、なかでも其の頂上がひときわ白く輝いていた、と活写する。もくもくと湧くその先端が眩しい。