「晴耕集・雨読集」10月号 感想  柚口満

酔芙蓉お七の墓へ飛火せる蟇目良雨

   この句の作者は東京の白山に住んでいるから八百屋お七の墓は文京区白山の円乗寺にあるものと思われる。江戸の前期に本郷の八百屋の娘お七が恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑になったことは有名な話。井原西鶴の『好色五人女』の文学や、歌舞伎、文楽で取り上げられ話題を呼んだ。
 掲句、下五の「飛火せる」にその場での発見がある。お墓の近くには酔芙蓉の花が咲いていて赤く色づいた数片がお七の墓に及んでいるのを見ての表現である。またこの花が、十六歳のお七の化身に見えたのかもしれない。

仲見世をひやかし通る片かげり児玉真知子

 浅草の浅草寺に通じる仲見世通りは休日、平日を問わずすごい人混みである。二百五十メートルに及ぶ通りはそれこそ立錐の余地もない混雑で、特に外国人の人達が目立つ。
 さて、真夏のひと日仲見世に遊ばれた作者、通りの片方ばかりの片蔭を選んで歩き、いろんな店をひやかしたという。片かげりのあるほうの店が意外と売り上げが多いということもあるのかもしれない。

広重の浪を染め抜く藍浴衣鈴木大林子

 夏の夕風が立つ頃、湯上りの素肌に糊の効いた浴衣を着るのは大きな醍醐味である。またその色や柄も多様化され好みのものを着ることになる。
 この句は世の中の浮世絵ブームを反映してか、その図柄に歌川広重の有名な「ヒロシゲブルー」を使った浪模様の浴衣姿に遭遇した、と詠む。
 広重の画に出てくる水や空の青色はヨーロッパやアメリカでは藍色として評価が高いが、生地の染色をこれに近いものにするのも至難の技であろう。藍浴衣の素晴らしさ。

天重しあぢさゐの藍ひき締まり岩田諒

 神様はよくぞ梅雨時に紫陽花を配されたなあ、と思う時がある。紫陽花の花は、とくに藍色のものは快晴の日に見ると色は褪せて見えるし、水分も飛んでしまって生気がない。
 そういった意味では掲句の「上五」の天重しの捉え方はまさに的を射ており、曇天のもと紫陽花は一番いい色を謳歌し引き締まって見えるのである。この紫陽花の時期、私は鎌倉の句会に出かけるときはいつも雨か曇り空を密かに念じて家を出る。

聞き役にまはつて崩す冷奴奈良英子

 冷たい氷水に浸した豆腐を食べごろの大きさに切り、おろし生姜、紫蘇、葱,茗荷などの薬味を添えて醤油で食べる冷奴。これほど簡単にできる庶民的な夏の食べ物はないであろう。
 この句の鑑賞は多岐にわたって想像が膨らみ、読む人の解釈次第で楽しいものになる。冷奴と対峙しながら話をするほうと聞き役に回った人の対比がおもしろい。聞き役はもっぱら冷奴を崩してたべるだけ。しかし、その箸の崩し方次第で話の展開は読めなくなる。はたして喜怒哀楽、どの手の話だったのか。

背泳や一人占めなる空と海岡村實

 背泳ぎ、背泳という泳法が生んだ一句である。クロールを真反対にしたのが背泳で、その目に見えるのは左右の海と真上の空だけである。
 中七の一人占めという表現からして達者な泳ぎ手であることも連想される。泳ぎ下手な自分に比すれば羨ましい限りである。背泳の句に石田郷子の「背泳ぎの空のだんだんおそろしく」があるが、こちらは空の大きさの畏怖感を詠んでいる。

青田風入れて夕餉の大家族髙井美智子

 農業の衰退がいわれて久しく人口の大都市集中や核家族化への警鐘など問題点が山積しているなかで、こういう句にあうと何故かほっとする。
 四方を青田に囲まれた大きな農家が舞台である。がすくすくと育ち、その青田風を一杯に入れて賑やかな夕餉が始まった光景である。親子三代が集まっての賑やかな会話と笑い声、平和である。

新豆腐手にあやされて浮き上がる小野寺清人

 一読して中七の「手にあやされて」の把握に感心した。収獲したばかりの国産の大豆で作った新豆腐は珍重品、その風味は外国の豆のそれとは大きく異なるという。
 その初々しい豆腐を水の底から掬い取る時に、あやすように慈しんで浮きあげさせたという。崩さずに角もすっきりと切られた新豆腐、その美味さ加減が手に取るように伝わってきた。

まだ止まぬ庇の雫夕立晴杉原功一郎

 夕立の過ぎたばかりの在り様を的確に描写した一句。篠突く夕立がはたと止んだのであるが、庇からの雫はまだ間断なく続く。
 しかしその雫の間隔は少しづつ間遠になってきてついにはピタリと止んだ。あたりは嘘のように晴れ上がり美しい夕映えに包まれた。夕立が止んでからの時間の経過の把握が見事だ。

気泡入る明治の硝子夏館草地たみこ

 夏館はひと口でいうと夏らしい装いを施した邸宅のことである。日本風の屋敷もあれば洋館のしゃれた作りもあり自然豊かな環境にある別荘なども想起される。
 掲句は上五から中七にかけての表現で和式のかなり古い邸宅であることがわかる。硝子に気泡が入っていることの発見が明治の由緒ある夏館を彷彿とさせてくれた。

来るは疾く去るはゆるゆるはたた神菰田美佐子

 はたた神、雷の一句である。怖いものの例えに地震、雷、火事、親父があるが雷の恐怖は大人、子供を通じて昔から共有してきたものだ。この句は雷の発生から去るまでをよく観察している。来る時はあっという間に頭上にくるが、去る時はゆっくり音を鎮めながら遠ざかるのだ。最初から最後まで聴覚が冴えている。

落蟬の触るればちちと低く飛ぶ冨田君代

 落ちた蟬を見るにつけその命の短さ、儚さをつくづくと思う。蟬の一生は幼虫が約七年間を土の中で過し、地上に出ての成虫期間は僅か十日間というから悲しいものだ。作者は地上に動かぬ蟬をみつけ触れたところちちと鳴いて低く飛んだという。残り僅かな命。

大夕焼金色帯びし白砂踏む仲間文子

 沖縄の大夕焼けを詠んだ一句。南の沖縄ならではの夕焼けが目に浮かぶようだ。真っ白に伸びる白砂の海岸線、空全体の夕焼けが濃くなるにつれてその浜は次第に金色を帯びて来たと詠む。同時出句の「晩夏光椰子蟹の碧紛れなし」も美しい一句である。

水撒いてたちまち変る風の色藤山多賀子

 ひとときの涼を得るために行う打水、玄関先や庭や路地に水を撒くと爽やかなことこの上ない。この句も夕方の打水風景、水を撒いた瞬間に風の色が変わったと詠む。庭木のおちこちから風が生まれ万物がその涼気に生気を取り戻したのだ。