「晴耕集・雨読集」3月号 感想  柚口満

赤は赤黄は黄を極め神無月 朝妻力
 陰暦の10月を指す神無月、この言葉は古くは『万葉集』や『古今集』にも見られ、この月の風に散る黄葉や、雨に染む紅葉などの作がみられる。また俳人も神の留守や神の旅などの季語を好んで使う。
 さて掲出句であるが、赤と黄の2色を提示して、それに神無月を配した一句で色は紅葉、及び黄葉と解釈したのだが妥当であろうか。神様は不在であっても山々は赤と黄色を極めた豪勢な神無月。カ行音が響き合い効果をあげている。
おでん鍋本音の話始まりぬ 井出智惠子
 冬はいろいろな鍋物が好んで食される。なかでも蒟蒻、大根、竹輪に卵、はんぺん等々、さまざまな具材を煮込んだおでんは庶民のもので別名、団欒食ともよばれる楽しい鍋といえよう。
 この句は仲間同士でそのおでんをつつき合っている光景。会話が弾みだし本音が次々と繰り出される展開となった所が面白い。ざっくばらんな話が吐露されるのもおでん鍋の効用か。
波の花地を転がるも宙舞ふも 池野よしえ
 波の花は日本海沿岸で見られる珍しい現象であるが、作者のお住まいの佐渡でも多く見られるものであろう。先年、棚山波朗主宰の案内で奥能登を巡ったときの大規模な波の花は今でも脳裏から離れない。
 この句は打ち上げられた波の花の瞬間を具体的にかつ的確に描写している。数十メートルに舞い上がるもの、また地上を転がるように吹かれ行くもの、その千変万化の泡の動きがよくわかる。池野さんの句に「オロシャより風吹きつのる波の花」があるが、この句は歳時記に掲載されている。
洗はれて干さる地下足袋三ヶ日 植木緑愁
 三ヶ日は正月の元日、2日、3日の総称である。この正月気分が横溢する3日間を表す季語をうまく使ったのがこの句である。
 作者は数年前までは手広く煙草の栽培をされていたがいまは止められたと聞く。しかし田畑の仕事は続けられているのであろう。年末ぎりぎりまで活躍した地下足袋を三ヶ日かけて干したと詠む。本来の季語の本意を逆手にとった使い方であるが、裏返しにいえばこれが効果的で正月3日間の安らぎが伺えるのである。
裸木の捨つるもの無き力かな 小林博
 枯木の傍題が裸木である。枯木といっても実際に枯れてしまった木ではなく落葉をし尽した落葉樹をいうのである。
 掲出句、上五から中七までは当たり前のことをいっているのであるが眼目は「力かな」である。この下五で、俄然この句が光を持つことになる。全ての葉を落として一層の威厳を示す大木を一物仕立てで巧妙に詠んだ一句。同時出句の「我が影の我を急かせる年の暮」にも同様な感を抱いた。
凍薔薇の硝子細工のごと散りぬ 網倉階子
 厳寒の庭の凍てる薔薇を詠んだ一句である。花の少ない冬に咲いた一輪の薔薇、その小振りな花が凍てて硝子細工の破片のように散ったという。
 薔薇といえばあの独特な花びらが思い浮かぶ。やや肉厚の可憐な花びらが硝子の一片が剝がれるように飛散した。耳を澄ませば微かな壊れる音がしたのでは、と思わせる詩情溢れる一句。
辻ごとに仰ぐ天守や冬うらら 大西裕 
   どこかの地方の城下町でも散策されて作られた一句であろうか。古い街並みのどこの辻からもこの町のシンボルであるお城が見える風景。鍛冶町、紺屋町、鉄砲町、同心町などという名を楽しみながら穏やかな冬のひと日を堪能された。辻ごとに仰ぐ、という表現でその城下の佇まいが確と表現されている。
一目千本枯木もほのと桜色 大溝妙子
 この句の作者は初冬の一日を吉野山にでかけたのであろう。吉野はいわずとしれた桜の名所、開花時には約三万本といわれる桜を見ようと沢山の人がここを訪れる。季節は冬、一目千本の枯木の桜は静かにその日を待っていた。しかもその一本ずつの幹や枝はほんのりと桜色の艶を滋味に醸し出していたのだ。冬木の桜、という独立した季語もある。
春の雪独り露天湯あふれさす 渡辺信子
 こういう状態を贅沢なひと時というのかもしれない。人里を離れた山間の露天風呂。自分一人が独占する露天風呂。穏やかで静かな春の雪が舞う中を、思い切り心身を緩ませて贅沢に豊かにお湯を溢れさす。
 「春の雪」という明るい季語の斡旋が効いていて、一句全体に余裕が感じられる。