「耕人集」 7月号 感想  沖山志朴

曙の空使ひ切り鳥帰る大林明彥

 「朝の空」ではなく、作者は「曙の空」と表現しているところに注目したい。朝の空と表現すると、空間の対象が広くなるが、曙の空となると曙光の明るい東の空の一部の領域に限定される。ほのぼのと明るんできたその東の空を、沢山の鳥が影をなして帰ってゆくという意味合いになり、コントラストも見事になる。
 さらに、「使ひ切り」の措辞にも作者の工夫が感じられる。この表現により、飛翔の空間が限定されていることが、より明確になる。慎重な言葉選びが光る句である。  

郭公の鳴き声響く舟下り金嶋智鶴

 中七の「鳴き声響く」からは、峡谷のような両岸がそそり立っている場所に舟が差し掛かったことが分かる。また、急流の水音の激しいところではなく、比較的流れの穏やかな静かな場所での作であるということも想像できる。
 激しい流れを通過した後の緊張感からの解放の句と考えてよいか。聴覚が中心の句でありながら、絵画的な味わいのある句でもある。視覚的にも聴覚的にも一抹の清涼感が伝わってくる句である。

菜の花や日に一本の電車行く古屋美智子

 気儘な地方の旅に出かけ、交通機関を利用して移動しようとすると、電車の本数が極端に少ないことに驚かされることがある。過疎化、車の普及や高齢化などで、今、日本の社会が急激に変わりつつあることを痛感せずにはいられない。
 掲句においては、明るい一面の菜の花の景色をまず配している。そして、背景として衰退の象徴でもある日に1本しか走らない電車を据えている。絵画の手法で明るい景色を描きながら、主題としては、地方の衰退への嘆きを内包している句である。地方には地方の良さがあると分かっていながらも、心の中に湧き上がる寂しさは禁じ得ない。「日に一本の」の中七にまさに作者の情感が込められているのである。    

表戸も裏戸もあけて夏祭 今江ツル子

 普段は開けることもない裏戸までも開け放って、御輿の渡御や山車のやって来るのを待つ夏祭。また、特別な料理やお酒を用意して、親戚や隣近所で祝い合ったりもする。昔から年に一度のこの日を楽しみに人々は汗水垂らして一生懸命に働く。
 祭のイメージとしては、連帯感や一体感、解放感、人々の盛り上がりなどがあげられよう。地域に不測の事態が起きたときは、この連帯感や一体感が大きな力となって、問題の解決へと向かってゆく。裏戸までも開け放つこの習わしには、連帯感、一体感、解放感が象徴されているように思える。

ささら波立ちては寄する花の屑原田みる

 「ささら波」は、さざ波のこと。桜の落花の時期、吹き溜まりに花屑が次々と吹き寄せられてくる情景を描いている。それがまるでさざ波が打ち寄せるかのように、風が吹くたびに、繰り返し吹き寄せられてくるというのである。
 花弁の移動する様子を波に見立てた比喩に趣がある。言葉の省略が効いているうえ、一句のリズムもよい。詩情のある句にまとまった。 

転勤の友発ちし日の夕ざくら 井川勉

 俳句は想像の文学である、ということがいわれる。掲句は、その俳句の特性をよく備えた句である。心情を吐露するような語はどこにも使われていない。しかし、下五の「夕ざくら」には、作者の深い思いが込められていることは読者にはすぐに分かる。
 唐詩を読むと、友との別れを惜しむ詩が少なからず出てくる。広い中国の国土。当時の交通事情や社会の情勢を考えると、旅立ちの別れが悲痛なものになるのも無理はない。掲句においても、現代の社会を背景にした複雑な事情や、個人的な特別な事情を孕んだ別れであったのかもしれない。作者にとっては格別寂しい桜となってしまったことが窺われる。情報化の時代を迎えたとはいえ、物理的な距離にはなんとも抗しがたいものがあるのであろう。

菖蒲の湯ことば日に日に増えし子と 石井淑子

 喃語しか話せなかった子が、言葉を覚えはじめると、興味の対象がどんどん広がってゆく。そして、言葉が言葉を生み、加速度的に語彙が増えてゆく。
 赤ちゃんとの関係がよくわからないが、たぶんお孫さんなのであろう。菖蒲湯の中で、抱いた子へ、健やかな成長を願いつつ、面と向かって話しかけている光景が想像される。赤ちゃんも心地よいのであろう、笑顔で一生懸命に答える。季語の効いた句である。