曾良を尋ねて (112)           乾佐知子

─ 京都近畿地方での曾良の行動 ─

3月4日に再び京へ向った曾良は
 3月13日 長島着、以後長島滞在。
 3月22日 長島を立つ。
 3月24日 京都着。
 3月25日 凡兆に会って翁の居所を問ふ。
 3月26日 淀の宮地に泊る。
 3月27日 奈良に泊る。 

 翌日28日の日記には、「乍出(でながら)ワキ戸へ寄 翁を尋ル」とだけあり、凡兆から聞いて奈良市脇戸町へ翁を尋ねたのであろう。所が、そこで翁に会えたかどうかは分からない。翁については一言も触れていないのだ。
 3月29日 吉野に泊る。
 4月朔日 吉野をくわしく廻り見た後、広橋氏の孫七郎宅に泊る。
 この広橋家は当時の広橋村の大半を領有して、相当富裕な家であった。享保4年より織田家に仕えていたが子供がない為、元文4年渡辺久を養子とする。この渡辺久は、羅生門の鬼退治で有名な渡辺綱の子孫である。末の末とはいえ、そのような名家から入婿があったということは、広橋家が由緒的にも相当な家であったことがわかる。この孫七と曾良が旧知の仲であったことは曾良の人脈の広さが窺い知れよう。
 4月2日 市左衛門へ行って1泊。雨。
  3日 下市の衆 会ス。
 「下市の衆」とは恐らくこの広橋家につながりのある者と思われる。吉野には秋津、宮内、堀、御園、小野、佐野、広橋、畠山の8つの豪族が存在しておりこの半分が「下市の衆」である。
 曾良はこの後高野山に詣で、更に熊野本宮へ直行し、新宮へは舟で下り那智の滝を見ている。
 4月15日 卯の上尅( 午前5時頃)近露を立。巳の下尅(午前11時頃)高原に着。増村衆ニ先立テ、日昏テ一リ計リイナメ(印南)二宿ス。
 とありここにも「増村衆」ということばがみえる。この「衆」ということばに注目していただきたい。少し先になるが6月28日の日記にも「(前略)この日祭礼あり。浄春の所で泊る。奈良、京都、江戸の衆と会す」とあり、曾良が行く先々でこれ等の連衆と会っていることがわかる。
 「衆」とは一体どのような集団か。曾良が奈良や京都、近畿の山々を巡って要所要所でこれ等の集団と連絡を取り会っていることが推測される。いずれも公儀の息のかかった者であろうが、曾良と同じ目的を持った連衆が、関西地方をくまなく巡っており、決められた主な地点で集まっては情報交換をしていたとみて間違いあるまい。
 曾良は4月から7月にかけて全速力で京都近畿の神寺をしらみつぶしに見て廻っている。神社は〝拝む〟と言い、社寺は〝見る〟と書いている。神道者の彼としては当然といえよう。