鑑賞「現代の俳句」 (129)                     蟇目良雨

 

場外は築地に残り鰯雲中村嵐楓子[春燈]
「春燈」2019年1月号
 平成末のビッグニュースの一つに魚河岸が築地から豊洲に移転したことがあげられる。たかが魚市場と言えないほどのネームバリューが築地にはある。かつて神田秋葉原の野菜市場(やっちゃば)が太田市場に移転したときには移転に際してこれほど揉めなかったと思う。その跡地はアキバとして一大ビジネス街とゲームのメッカとして栄えている。
 築地は、私が料理店を平成14年まで経営し仕入れに通ったので大変懐かしいところ。細ぼそと流れる築地川にかかる鉄骨アーチの海幸橋を渡って築地市場内に入る。買い付けた魚は潮待茶屋に待機しているトラックに載せて店へ直送してもらう。仕入れが終わってからの朝の楽しみに場内や場外の食べ物屋で腹を満たした。場外市場も場内に負けずに頑張ってきたのだ。関東大震災で壊れた日本橋魚市場の代わりに出来た築地市場は平成30年10月16日に83年の役目を終えた。今は場外だけ残された築地市場の空を覆う鰯雲がわずかに感傷をもたらす。同時作〈此処でない何処かにこがれ草の穂は〉は人の晩年を暗示する佳句。

色鳥や愁眉をひらく阿修羅像太田慶子[春燈
「春燈」2019年1月号
 少年のように細い体をもち眉に憂いを含む阿修羅像の魅力には誰でも虜になる。掲句はその愁眉を思い切って開いてしまった大胆な作品。愁眉を開く原因は色鳥が近くにやってきたから。仏教の伝来のルートに従って中国ー韓国からやってきた色鳥であったのだろうか、ふるさとを思い出して愁眉を開いたと鑑賞することもできる。阿修羅像が寛いだ姿の作品になった。

太陽がものの始まり雑煮椀鍵和田秞子[未来図]
「俳句」2019年1月号
「もののはじまり何でも堺」という言葉がある。交易都市堺の進取の気性を表したもの。その言葉も太陽がものの始まりと言われたら参ってしまう。太陽がなければ生命体は生き抜くことができないだろうことは少しの科学知識を持つ人間ならば理解できる。
 太陽はビッグバンで宇宙が膨張を続ける過程で出来たものでいずれ燃え尽きてしまうと現代科学は予想している。しかしそれは数十億年後というからそれまで人間の生命が続くかどうかもわからない。私たちに寿命があるように静かに太陽の終わりを待つしかない。雑煮椀の蓋を開けたら宇宙論になってしまった意外さ。

蘆刈に素早く日暮来たりけり内海良太[万象]
「万象」2019年1月号
〈芦刈の天を仰いで梳る 高野素十〉という句が蘆刈の句では好きだ。女性が空を見上げながら髪に手櫛を入れているところか。天を仰いでの措辞に女性の慨嘆が籠められていると思って読んでいる。
 さて、掲句である、蘆刈をしているのが男か女かも分からない、ただ日暮れだけが素早くやって来たという。あたふたと終い支度をして一部はそのままの状態で明日へ持ち越すことも想像される。釣瓶落としの時期に蘆は乾燥して刈りどきになるのだと教えられる。

ブラックアウト星の明さに竦むほど 岡本敬子[万象]
「万象」2019年1月号
この句のブラックアウトの意味は昨年秋の北海道南部地震の際に北海道全体の発電所がシステムに引きずられて停電したことを差す。ブラックアウトは一時的な意識不明、停電、演劇の暗転などに使われる。全道で停電が何日も続き夜は真の闇しかない生活を強いられたとき見上げた夜空の星の近さに身が竦むほどであったことを素直に表現している。体験したものでないと分からない感覚が句の強み。

一片の紅絹は母なり冬に入るきちせあや[泉]
「泉」2019年1月号
 紅絹の端切れの一片が母のごとくに思えて冬に入りますと言う句意。この紅絹の一片には母の匂いと思い出が詰まっているのであろう。母の愛用した着物から残した一片の紅絹だったのではないだろうか。一片の紅絹は母だと断定して力強い句になった。

のど笛のうすうすとあり近松忌恩田侑布子[樸]
「俳壇」2019年1月号
のど笛といえば掻き切る、嚙み切るという言葉を連想してしまう。のど笛即ち気管は人や動物の急所である。掲句を喉仏と表現してしまったら男が対象になってしまうと思う。のど笛の通っている辺りがうすうすと見える女が登場して近松忌は完成した。また悲劇の一話が出来そうである。

湯豆腐や一行で足るいのちの詩角川春樹[河]
「俳句界」2019年1月号
 春樹氏は「魂の一行詩」を提唱されている。俳句は魂の一行詩ということである。湯豆腐の頼りげない豆腐に、または湯気の中にゆらりと立ち上る「生きているという実感」がいのちの一行詩でなくて何であろうか。

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