曾良を尋ねて (121)           乾佐知子
─『奥の細道』野坡本に関する一考察Ⅱ ─

 前稿でも述べたが野坡本の特長としては、外見は他の「細道」の本と変わりないが、中はおびただしい訂正を、とりわけ数多い貼り紙が目につくという。そしてその下には今迄知られていなかった文章がかいま見られるというから驚きである。
 櫻井氏は何とかしてこの貼り紙の下を見ることが出来ないものかと便利堂に頼み特殊な方法を使い通常通り上から光を当てた撮影の後に、貼り紙の下をも見るべく透過撮影する、という方法を行ってみた。その結果本文32枚の内、貼り紙のあるのは24枚に及び、その貼り紙は76枚以上(内二重の貼り紙は7枚)が認められたのである。
 貼り紙の他にも多くの訂正があり、誤字や誤写に対しては、その部分を木のヘラか刀子(とうす )のようなもので削り取ったりしている。ただし、削りすぎて破れてしまった箇所もあり、そこに紙を裏側から当てて補修しており、その上から新たに文字を書いている。一度貼り紙をして訂正したあと、更にその上から大きな紙を貼ったり、又一度貼った紙を剝がそうとして破れてしまったと想像される箇所がある。更に貼った紙を剝がす際に一部が下の紙に残り、半分が表皮まで一緒に剝がれてしまい、その結果まだらになってしまった部分もあるという。いずれにしても驚異の作業といえよう。
 これらは写真を通して判断されるもので、傷が剝がす際に破れたものか、削るときのものかの区別はつけにくい。○印や傍線の箇所も見受けられる。
 訂正の一部を紹介すると、すでに冒頭の(月日は百代の過客にして、行きかふ年)の部分が底文では(…過客にして立帰ふ)となっている。更に数行先の(…春改れば)の「改」の字は別字の上に重ね書きをしている。その先(道祖神のまねきにあひて)の場合「祖」の字が底本では「岨」の字になっている、といった具合である。
 〝行春や〟の句から〝あらたふと〟の句までの間の訂正箇所は実に21ヶ所あり、一字たりとも疎かにしない、という芭蕉の気迫が感じられる。
 文字が二重、三重になっている箇所もあり、透過撮影の写真からでは判断が難しい部分は、NHKの大阪放送局のアイディアでDVE(デジタル・ヴィデオ・エフェクト)という方法を用いた。かなり微妙なタイミングではあったが、幾つかの新たな箇所の読み取りに成功したという。
 このような膨大な苦労の末に完成された『奥の細道』の作業は一体いつの時点で成されたのであろうか。嵐山光三郎氏は「恐らく元禄6年3月に甥の桃印が芭蕉庵で亡くなった後、芭蕉は7月に入り暑さで衰弱したとの口実で盆過ぎから家に籠り、人との接触をさけていた時期があったが、恐らくその時に「ほそ道」の最終稿を書いていたのではないか」と言われている。