韓の俳諧 (14)                           文学博士 本郷民男
─ 居留民の詠んだ俳句 ─

 京都の俳句雑誌『俳諧鴨東新誌』に、朝鮮として掲載された俳句を、引き続いて見ていきます。明治21年の11号に五句、13号に六句あります。朝鮮という地名や点数を省き、送り仮名や濁点を、現在の書き方に変えました。便宜上番号を付けます。
名月や故郷を思ひおもはれつ蒲帆
脱ぐ迄は重さも知らず雪の蓑 塘雨
鹿鳴くや麓の家の細明かり 柏軒
窮屈な鳴く様もせず籠の声南枝
からまつて松にも添ひし蔦紅葉蒲帆
浪の間を夜すがら蜑の砧かな柏軒
日向かうた障子の音や冬の蠅蒲帆
世に欲はなしと言ひつゝ薬喰塘雨
我のみと松は誇らめ雪の山南枝
是でこそ花の兄なり冬の梅南枝
松に声もたせて秋の名残かな蒲帆
 ②の句は、其角の「我雪とおもへばかろし笠の上」を踏まえたのでしょう。其角は漢詩の一節の「笠ハ重シ呉天ノ雪」を引き、芭蕉もそれから「夜着は重し呉天に雪を見るあらん」と詠んではいますが。
 ④の句は、虫籠が季語です。しかし、鳴くと声で虫を暗示してはいますが、虫がないです。芭蕉の語録に「真草行」の言葉があります。この句は季語の使い方からしても、草の句です。実は私も句会に出てこの種の季語の使い方をして、叱られたことがあります。
 ⑥で、蜑は「あま」と読んで漁師を意味する国字です。そうして、珍しく海の情景を描いています。明治21年というと、開港した数少ない町の海岸に日本人居留地が設けられたので、居留民はみな海岸に住んでいました。①⑤⑦⑪の作者である蒲帆は、大塚蒲帆として元山(ウォンサン)に住んでいました。ここにはいないですが、春湖、舟湖といった有力俳人も元山に住んでいました。
 現在は北朝鮮の東海岸の都市である元山は、鉱工業の拠点です。開港した明治13年には235人(男210、女25)、26年には795人(男488、女307)の日本人が住んでいました(『元山発展史』)。そのような元山に、京都まで投句するような俳人がいたと思われます。
 句全体の印象として、竪(たて)題 が多いと思います。竪題は和歌や連歌以来の季語で、月、雪、鹿など雅です。⑤⑨⑪は竪題に加えて松を取り合わせ、巧といえば巧ですが、類型的です。⑦の蠅と⑧の薬喰は横題、すなわち俳諧にしかない俗な季語です。④の虫籠は竪題ですが、実態は横題に近いです(鈴木健一「虫籠をめぐる詩歌史管見」)。
 姿情論でいうと、①⑧は情だけあって姿がない、今日の言い方なら主観的で写生描写がないと、批判を受けるでしょう。
 批判もあるでしょうが、狭い居留地に住みつつ、それなりの俳句を詠んでいたように思われます。