自由時間 (84)  古今和歌集仮名序             山﨑赤秋

   古今和歌集は60代醍醐天皇(在位:897~930)の詔により撰ばれた最初の勅撰和歌集である。897年に遣唐使が廃止されて、国風文化に軸足が移りつつあることを象徴する最初の大事業である。撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人。完成したのは910年ごろのこと。全20巻、1111首。
 古今集には、仮名で書かれた〈仮名序〉と漢文で書かれた〈真名序〉の二つの序文がある。仮名序を書いたのは紀貫之である。仮名序は、初めて本格的に和歌とは何かを論じた歌論になっていて、歌学のさきがけといわれている。その仮名序を以下に抄訳する。
【〈 〉内は略した部分の要約】
 和歌というものは、人の心を種にして、いろいろな言葉になったものである。世の人は、いろいろな事に出会ったり、いろいろなことをするので、見たり、聞いたりしたものに託して心に思うことを言葉にするのである。花に鳴く鶯や水に棲む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、すべて歌を詠むと言える。力を入れずに天地を動かし、目に見えぬ鬼・神をも感じさせ、男女の仲をも和らげ、猛々しい武士の心をも慰めるのは、和歌である。

〈和歌の始まり〉
 そうして、花を愛で、鳥を羨み、霞を褒めたたえ、露をいとおしむ心も言葉も多く、様々な歌になったのである。遠いところも、旅立ちの一歩から始め、長い年月をかけて行き、高い山も麓の塵や泥から始まり、雲のたなびく高きにまで登るように、歌というものもこのようにしてなったのである。

〈和歌の父母と和歌の六分類〉
 今の世の中は、華美に傾き、人の心が、浮わついてきてしまったので、なくてもいいような歌や、どうでもいいような歌ばかりが目に付くので、まともな歌は、好みの人の家に埋もれ木のように埋もれてしまって、公には、花薄が穂を出すように現れることはなくなってしまった。
 歌の初めを思えば、こうではなかった。昔の代々の帝は、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、御そば近くに仕えている人々を召して、花や月にちなんだ歌を作らせ献上させたものだ。あるときは、花に寄り添おうと見知らぬところを尋ねまわったり、あるときは月を見たいと思って何の道しるべもない闇をさまよったりする、それぞれの心をご覧になって、賢愚のほどを判断なさったものだ。
 そればかりではない。さざれ石に例えたり、筑波山に託したりして、君のために祈ったり、身に過ぎた喜びがあったり、心にあふれるほどの楽しみがあったり、富士山の煙に例えて人を恋しく思ったり、松虫の声を聞いて友を偲んだり、高砂の松と住之江の松のように離れていても共に生きているように思ったり、男山を見て男盛りの昔を思い出したり、女郎花を見て女盛りが短いのを恨んだり、その折々に歌を詠んで心を慰めたものだ。
 また、春の朝に花の散るのを見、秋の夕暮に木の葉の落ちるのを聞き、あるいは、年ごとに、鏡に映る、雪のような白髪と波のような皺とを嘆き、草の露や水の泡を見てわが身の儚さに気づき、あるいは、昔は栄え奢っていたが時世に入れられず権勢を失い落ちぶれて、親しかった人々とも疎遠になり、あるいは、末の松山の波をかけ、野中の水をくみ、秋の萩の下葉を眺め、暁の鴫の羽掻きを数え、あるいは、呉竹の憂き節を人に言い、吉野川を引いて世の中を恨んできたが、また、いまは富士山も煙が立たなくなり、長柄の橋も造られると聞いた人は、歌にのみ心を慰める。

 古よりこのように伝わってきたのであるが、広まったのは奈良時代からである。その時代の帝は歌の心をご存知であったのであろう。その御代には、正三位柿本人麻呂が歌聖であった。これは、君も臣下も歌によって合体したというべきであろう。秋の夕べ、龍田川に流れる紅葉を、帝の御目には錦とご覧になり、春の朝、吉野の山の桜は人麻呂の心には雲かとのみ思われたのだ。また、山部赤人という人がいる。歌が不思議なほど上手だった。人麻呂は赤人の上には立たず、赤人は人麻呂の下に立つことも難しいであろう。この人々のほかにも優れた人がいて、代々途切れなく続いた。これ以前の歌を集めて万葉集と名付けられたのである。

〈六歌仙の評価、古今集の成立過程〉
 人麻呂は亡くなったけれども、歌は残っている。たとえ、時が移り、物事が変わり、喜び・悲しみが交々過ぎていっても、この歌の文字は残る。青柳の糸が絶えず、松葉の散り失せることなく、柾木の葛が長く伝うように、この文字が末永く残っていけば、歌のかたちを知り、歌の心を会得している人は、大空の月を見るように、古を仰いで、今を慕うであろう。(了)

 俳句も参考にすべきところがある。「人の心を種」としているか。見たこと、聞いたことを並べて良しとしていないか。心のフィルターを通しているか。