曾良を尋ねて (132)           乾佐知子
─岩波庄右衛門正字と対馬国について─

 5月8日、壱岐の風本では対馬へ渡る為に巡見使の一行と案内人の三浦貞右衛門との間で種々の打合せがされていた。所が3日後の11日になってもまとまらず、その間に海上が再び荒れて、対馬行きの便船が欠航となる有様であった。
 村松友次氏の著書『謎の旅人曾良』の中に案内人三浦氏の記録から、その時の問答のやり取りが克明に記されていて興味深い。
 その5月11日の条に曾良こと岩波庄右衛門の名前が出てくる。
 ○ 数馬様御用人からの手紙で、尋ねたいことがある、との事ですぐ参上したところ、
   御用人岩波庄右衛門が出て来て数馬様に代わって私がお尋ねした い、とのことであった。
 ○ 先年(天和元年1681年)の巡見の節は小舟越村へ一宿しているが、今回は大山村一宿とあるがなぜか。小山村とは。
 ○ 舟の渡しの件で風雨の場合は陸路に変更か。
 ○ 先年は佐護村に一宿とあるが、今回深山村と変っているのは何故か。
 ○ 先年は仁田村とあるが今回は瀬田村とあり、一所なのか。
 ○ 道法(みちのり)が前回と違うが、どういうわけか、と問われたので元禄年中の国の地図は全て改めまして、吟味の上に新絵図を作成致し先回の巡見の時のものとは 全体が相違しております、と申し上げた所、よくわかったとのことで退出した。
 以上で三浦貞右衛門の日記の記事は終る。
 この不思議な問答から感じられることは、地図にある村や道順を、前回と全て違えて作成したものを提出していることである。何故こんな面倒な手の混んだことをするのか。この不審な地図は宿や村の名前を微妙に変えてあり、相手を混乱させ時を稼ぐ為に他ならず、正字が〝よくわかった〟と言ったのは対馬藩の本心を見抜いたから、といえよう。
 ここで対馬藩とはいかなる藩か、簡単に説明したい。別称を府中藩といい対馬国一円を本領とし、肥前国その他に飛領を有した外様藩で
10万石以上格と称した。藩主は中世以来不動の島主の宗氏で戦国期の守護大名だ。
 天正15年(1587)九州征伐に下った豊臣秀吉より朝鮮国王の入朝を取り持つ命を受けたがこれに失敗し、5年後に出兵することとなり島は戦場化し荒廃した。家康の代に宗義智の懸命な働きにより国交回復成り、慶長九年(1604)と12年に朝鮮使を迎え通商条約締結に成功、念願の貿易が復活した。
 朝鮮貿易は鎖国下にも拘わらず、公貿易と私貿易があり、高麗人参や中国産の絹などを輸入して京都や大阪に運び莫大な利益を上げていた。そしてその代価は主に銀であった。
 宗氏の石高は実数で明示されず、10万石以上格と称されたのは貿易の収益が見込まれていたからだといわれる。今後この対馬国と正字がどのように拘わっていくか注目したい。