「晴耕集・雨読集」10月号 感想  柚口満

落し文遊女の墓にほどけをり池内けい吾 

  俳句でもやっていなければ「落し文」が俳句の季語であり、ましてやこれが動物であることを知る人はまずいないといってよいだろう。落し文はオトシブミ科の甲虫で広葉樹の葉を丸めて巣をつくりその中に産卵をして地上に落とすという手の込んだことをする。この巻いた筒が巻手紙にみえるところからこの名がついたというのだが、俳人の好む季語のひとつになっていることは間違いない。
 さて、この句の面白いのはその落し文が遊女の墓の前で解けていたという発見である。遊女というからには何か曰く因縁のある手紙が潜んでいるのかとも、一瞬この作者は思ったのかもしれない。
 落し文の句はその独特な呼び名ゆえに優雅にまた俳諧味を駆使して詠まれることが多いようで、含蓄のある季語のひとつといえよう。

燕帰る海原の果て明るき日 畑中とほる
 春に渡ってきた燕は町中や人里で人間と親しく暮らし、初秋には川岸の葦原などに集まって南に帰る準備に入りやがて集団でもとの帰路につくのである。
 この句は燕の帰る日を、海原の果てが明るい日と断定して忬情が醸し出された。水平線が明るい大海原を集団で帰る燕の無事を念ずるやさしい作者の目が感じられる一句。それにしても町中から燕の姿が激減している現状が気になって仕方がない。

水が水押して逆巻く大出水 鈴木大林子
 ここ数年の地震や異常気象によるとみられる自然災害、なかでも水害などの被害は目に余るものがある。
知らずにいた線上降水帯という専門用語に出会い、気象図で大雨の降る地域の予想もできるようになった。
 出水は夏の季語、台風の影響などの水害は秋出水とされる。掲出句、大きな河川の出水を詠んでいて「水が水押して」に臨場感、切迫感がよく出ている。これからの出水は季節を問わず発生する可能性がある。

夜の火星煌々と地に虫しぐれ 武田花果
 今年の7月31日は火星が地球に大接近して、文学に精通する人はもとより一般の人達の間でも大きな話題になったことを思い出した。15年振りの火星は南の空に赤く大きく輝き、しばらくは毎晩のように夜空を見上げていた。この句はこの火星に関心を示して作られた一句。
 空には宇宙の神秘を秘めた火星が煌々とその威を示し、地上ではさまざまな虫が鳴き競う。有史以来繰り返されてきた宇宙と自然の変わらぬ摂理を思えば人間の存在のなんと小さなことか、とも思ってしまう。

水中花水替ふる時力抜く 岡村優子
 夏の風物詩、水中花。人間が暑い夏に少しでも涼味をと考えたものでガラスの容器などに水を張り、その中に造花を入れて咲かせるものである。近頃ではその素材に趣をこらした精巧なものも出回っている。
 この句はその容器の水を替える時の感慨を一句にしたもの。当たり前のことだが水中にあった花は水分を抜かれ萎れてしまった。そのことを力を抜いたと表現したところが眼目で、水の入れ替えが終れば新しい水の中で再生の美しい花が開くのである。

龍潜む大日堂のすずしさよ 沖山志朴
 春耕にとって馴染深い高幡不動尊、その境内の一番奥に位置する大日堂には有名な鳴り龍があり参拝の善男善女はその下で龍を拝観する。
 暑いさなかのひと日、作者は大日堂に入りやや暗い鳴り龍の下にたち龍を見上げている。手を打つでもなく見上げているうちに、えも言われぬ涼しさを感じたと吐露する。誰もいない堂での龍との対峙、心頭滅却すれば火もまた涼し、の心境か。

帰省子の真つ先に跳ぶ船着場 高橋浩平
 夏休みを利用して故郷の生家に帰るのが帰省、学生やサラリーマンが家族そろって久々のお国入りをする。
掲出句の帰省子は学生であろうか。連絡船から降りるのももどかしく誰よりも早く港の土を踏んだ姿に、その逸る気持ちが十分に出ている。

大夕焼赤松の幹焦しけり 橋本公枝
 作者は敦賀の方だから、これは日本海の大夕焼であろうか。海岸線に伸びる赤松林に日本海を染める真っ赤な夕焼けが差し込み、その林立の幹をまるで焦すように染めたという。晩夏の一風景を夕焼けを介し色彩豊かに詠んだ一句。

夏座敷畳の縁の潔し 八木岡博江
 夏座敷の清々しさを詠んだ一句。相当広い夏座敷に違いない。整然と並んだ畳の縁が長方形を重ね合い、見事な幾何学模様を呈していた。このあとこの座敷ではどんな宴が開かれるのだろう。畳の縁が潔いとぱりと詠み類想のない夏座敷の一句になった。