「晴耕集・雨読集」8月号 感想  柚口満

妹の忌の縁側に吊る蛍籠石鍋みさ代

 作者とは電話では時々お話をするがしばらくお会いする機会がない。お御足の具合がよくないそうで遠出ができないらしいが毎号の作品でお元気さが伺えるのが嬉しい。
 さて掲句であるが先に逝かれた妹さんを偲ぶ一句である。蛍の季節を迎え、その蛍を介しての思い出があるのだろうか。今年も縁側に蛍籠を吊るし静かにその忌を修された。季語「蛍」の斡旋が絶妙である。

月山の篠の子採りのぬつと出し阿部月山子

 月山子さんの俳句はその俳号通り、四季を通じての月山を詠み春耕誌に発表され続けている。
 この句に出てくる篠の子は別名月山筍とも呼ばれ、講宿の味噌汁などに入っているものであるが、これを採るのが大変難しいという。生えている場所が山深いところであったり、山の急斜面の崖だったりするからで、最近は熊に襲われる人のニュースもしきりだ。そんな不案内なところから突然出てきた篠の子採りに驚いた作者、下五の「ぬつと出し」の表現がそれを物語る。

乙女らの脚のすらりと夏来たる阿部悦子

 4月下旬の細見綾子の故郷を吟行した際、綾子の高等女学校の生活を古い資料で知る機会があったが、彼女の在学中の大正10年の夏から洋装に変わったことを知り、当時の綾子らの青春を偲んだのである。
 余談になったがこの句も立夏を迎えた制服姿の乙女らを詠んだもの。なるほど最近の女高生らは昔と違って間違いなく脚が美しく長くなった。生活環境のせいか食べ物の関係なのかはしらないが。
 あの西東三鬼は終戦直後の昭和21年に「おそるべき君等の乳房夏来る」を詠み世間を騒つかせた。

禊場に月の欠片や河鹿笛武田禪次

 神秘的な光景を一句に仕上げた作品である。どこか山深い大きな神社の禊場であろうか。しかも時間が昼間でなく夜というのも印象的である。
 禊場とは一般的には自分の身体を清め、罪やけがれを洗い流す場である。冷水に浸かるか、あるいは頭から水を被りながら一心に祈りを捧げられた。
 水面に映り揺らめく月の影、そして近くの渓流から聞こえる河鹿の静かな声が精神統一の世界へと導いてゆく。

ショーウィンドーの中に人ゐる薄暑かな実川恵子 

 普段あまり見かけない、非日常的な光景を見たときに人はその対象物に興味を示すことがある。この句の作者もたとえば銀座のデパートのショーウィンドウーに動く人影をみつけてギョッとされ、そのあとの関心を一句にされたのだろう。
 ショーウィンドーの商品はかなり季節を先取りをしたものが飾られる。真夏の女性の薄物のファッションかあるいは水着であったのか。薄暑の季語の意外性も効いている。

豆御飯かつて父母の座子供の座宇井千恵子

 豆御飯を作る家庭が少なくなったのでは、と感じることがある。細身綾子の句に「豆飯を喰ぶとき親子つながりて」というのがあるが我々の子供の頃の豆御飯は家庭の平和を表すものだった。
 作者も昔の卓袱台にあった家族の定位置を思い出し久々に旦那さんと豆御飯を食べ往時を懐かしんでいる。

子燕のこぼれ落つまま飛び立ちぬ梅澤忍

 燕の番が来て巣作りをして、卵を育てやがて子供が孵るまでをこの作者はじっと観察してきたのがわかる一句である。
 そして巣立つ日の瞬間を詠んだのが掲句である。その日の子燕が巣から落ちる、と危惧した刹那が飛翔の幕開けだったのだ。燕は人間の生活に近い存在であるからこそ見守る人も暖かい眼を差し向けるのである。

雲海の赤き怒濤や大夕焼大林明彥

 最近の俳句は人事句が氾濫して自然詠が少ないのを嘆く私としては掲句のような大景を詠んだ句に出合うと心が落ち着く感がする。
 高い山から夕焼けの大きな雲海を眺めている図である。夕焼けに染まる雲海の動きは真っ赤な怒涛のように見えたというダイナミックな把握、描写が秀逸。

原始の森赤翡翠の声透けり仲間文子

 私は残念ながら赤翡翠(あかしょうびん)の姿を自分の肉眼で見たことがない。先日テレビの旅の番組で沖縄の西表島の原生林で捉えたこの鳥を放映していたが赤い極彩色の美しい姿が印象的だった。仲間さんは沖縄の方だから馴染深いのだろう。キョロロロと尻下がりに鳴く透き通った声も併せて聞きたいものだ。目立つこの鳥「南蛮鳥」の別名を持つのにも納得する。