「晴耕集・雨読集」3月号 感想      柚口満

風に舞ひ風に折らるる枯蓮池内けい吾

   蓮は季節季節によく俳句に詠まれる素材である。季語でみてみると蓮植う、蓮の浮葉、蓮の花、蓮の実飛ぶ、蓮根掘る、破蓮、そして掲出句の枯蓮といった具合にさまざまな姿を提示して楽しませてくれる。
 なかでも7月から8月にかけて咲く蓮の花を愛でる人が多い中、その終焉を迎える冬場の枯蓮ほど無残なものはない。 
   作者は枯蓮に及ぶ風に注目をして「風に舞ひ風に折らるる」と確かに写生をしてその哀れさを強調した。西東三鬼の句に「枯蓮のうごく時きてみなうごく」があるがこの句も風の斡旋を詠んだ一句である。

今日一日つつがなく暮れ玉子酒山田春生 

  風邪薬として飲まれる玉子酒は日本酒に卵黄と砂糖を加えて熱くしたものであるが、風邪への対処方以外に寒さしのぎや寝酒としても珍重される。
  寒い一日を恙なく乗り切り夕方に飲む玉子酒、ほっと一息をつき、まずは自分の健康であることに感謝している図が微笑ましい。同時に出されている「年惜しみつつ盃をすごしけり」も酒好きな山田さんらしい一句である。

半眼のまぶたくすぐる煤払生江通子

  半眼という言葉からこれは仏様の半眼ということである。半眼というのは仏像が目を見開くでもなく閉じるでもない状態をいう、といわれている。
  さて、掲出句は仏様、仏像の煤払いの景を詠んだもの、大きくて長い道具を使い、その半眼の瞼をくすぐるように丁寧に払ったと表現したのが眼目であろう。余談であるが半眼の意味合いには、半分は外の世界を見て、残りの半分は自分の心を見つめるとの解釈があるらしいが、なかなか含蓄のある話である。

かたはらに夫の歳時記初句会古市文子

 作者の夫君、古市枯声さんが逝かれてもう4年も経つかと月日の流れを思わずにはいられない。文子さんは毎月の春耕誌で夫の思い出を、情に流されずに、しかも淡々と詠まれている。その句群を読ませていただくと、句を通じて歩まれたご夫婦の人生がいかに充実していたかがよくわかる。
 この句は今年の初句会の模様を詠んだもの、机上の傍らには亡き夫遺愛の歳時記が静かに寄り添う。同時の出句作に「仏壇の夫に御慶を申しけり」がある。

冬至南瓜ひと切れ添へて患者食岡村實

 病気で入院を余儀なくされた患者にとって3度の食事は楽しみではあるが、そこは病人食であるからそんなに美味しいものが出るはずがない。あくまで栄養本位でカロリーは低いのである。 
 そんな患者に、きょうは冬至南瓜がたったひと切れではあるが添えられて出てきたという。病院の粋な計らいだ。
 冬至を境にまた日が長くなるところからこの日は一陽来復、退院の日は近い。

年の市売り手買ひ手が声嗄らす小山田淑子

 年の市は師走の中旬から下旬にかけて正月用の品々、例えば注連飾り、神棚、門松、おせちの食料品などを売るために立つ市のことで神社や寺の門前で開かれることが多い。
 中七に「売り手買ひ手が」ともってきたのが効果的で、その嗄れた掛け合いの声が丁々発止と飛び交うさまはいかにも歳晩の町なかの一風景にふさわしい。

一語にも似て一輪の寒紅梅柿谷妙子

 寒紅梅の一句。上五から中七にかけてのリズムの良いなめらかな音律に続き季語の寒紅梅で収めた格調のある一句である。
 出だしで「一語にも似て」と読み手にその結論を提示して幅を持たせたことで、その一輪の寒紅梅の存在が大きく膨らんだ。その一語とは、それは読み手に委ねたということだろう。

目に見えぬものに追はるる十二月小林啓子

 12月という月は有り体にいえば一年最後の年であり、具体的には年内に決着をつけるべきこと、そして新年を迎えるための細かな準備等々何かと慌ただしい。
 作者はその辺もさることながら、12月は目に見えぬものに追われるという。12月のせわしさの根源は案外目に見えない得体のしれない重圧がその正体なのかもしれない、とふと思った。

日の当るはうへ崩るる鴨の陣坂下千枝子

 鴨が池に群れているのを鴨の陣と呼ぶ。人間には分からないがその群れには見張りがいて敵の来襲に備えて常に陣形を整えているらしい。
 この句は敵ではなくて日当たりを求めてともすれば崩れる鴨の陣に注目して作られた一句。群れの統率を重んじる鴨も冬の日当たりの誘惑には勝てなかった、ということか。