「晴耕集・雨読集」6月号 感想          柚口  

若葉風岬の原に馬群れて畑中とほる 

 掲句に詠まれている岬は青森県下北半島の北東端に位置する尻屋崎である。この舞台は作者が四季折々に俳句作りをする、いわばベースキャンプみたいな所であり春耕誌にもたびたび出句されている。
 標高20メートルの岬の草原は馬の放牧で有名である。眼下の海は夏の到来を告げるように明るい青みを帯び、背後の山々からは若葉の風が吹き寄せる。この先の半年、馬たちは最高の環境のもとで過ごすことになる。心が洗われるような気持ちのよい一句である。

昨日より今日の鶯聞きほれる福田町子

 作者の町子さんとは以前、茨城の土浦の句会で一時期ご一緒した思い出がある。その後体調を崩されたこともあったらしいが元気で句づくりに励んでおられること、嬉しいかぎりである。
 さてこの句であるが毎日のように鶯の鳴き声に接する環境にお住まいだ、ということが判る。そして、その鳴き声は昨日より今日の方が素晴らしいと聞き惚れたと述懐する。春の鶯から夏の老鶯までの変化を毎日聴けるその生活が羨ましい。

のどかさのとりわけ用のなき日なり飯田眞理子

 長閑さの句に「のどかさに寝てしまひけり草の上」という松根東洋城の作品がある。俳句を学んでいない人でも良く理解できる句である。それはこの句には長閑という季語の本意がわかりやすく、しかも過不足なく表現されているからである。
 掲句も理屈ではなく皆が羨むような春の長閑な一日が描かれ共感を呼ぶ一句に仕上がっている。中七から下五にかけての言い回し、特に「とりわけ」と強調したことで句が引き立つた。ひらがなの多用も効果をあげている。

母の字はどれもカタカナ種袋髙井美智子 

   私が小学校に入学した時の国語の教科書はひらがなの記述であったが、その少し前まではカタカナで「サイタ サイタ サクラガサイタ」というように書かれていたと記憶する。
 掲句を読んでまずそんなことが頭をよぎったのである。つまり我々の父や母はカタカナに親しむ機会が圧倒的に多かったということである。こういった経緯を踏まえるとこの句はよく理解できる。お母様が採取された穀類、野菜、あるいは花種の袋に書かれたカタカナ文字に母の人生を懐かしんだのだ。

蟻穴を出づやたちまち影まとふ山﨑赤秋

地虫出づなにやら外は楽しさう武井まゆみ

 春の季語の中に「穴を出づ」の上に動物を配したものが沢山出てくる。ざっと見ただけでも、蟇、蛇、蜥蜴、地虫、熊などがある。いずれの動物も長い冬の間はそれぞれのお気に入りの場所で冬ごもりをして、仲春のころに地上に出てきて活動を始めるのだ。
 さて赤秋さんの句は穴から出てきた蟻の様子を観察して出来た一句。久方の太陽を浴びた小さな蟻は、もう一族をなして列を作りそれぞれがしっかりと影を纏っていたという。影の発見が眼目。
 一方、まゆみさんの地虫の句はユニークで楽しい作品である。視点が地虫側に置かれているのが面白い。穴にいた地虫は外の陽気だけでなく周りを歩く人達の笑い声や足音を聴いて「何だろう、外は随分楽しそうじゃないか。ちょっと出てみるか」と穴を出た、と想像している。
 いずれにしても、静かだった大地に動きだした蟻や地虫の行動を捉えて春の到来を印象づけている。

聖鐘のひびく港や風光る大西裕

 風光る、という季語は春を迎えて太陽の暖かさが日毎に増してきて吹く風や周りの光景もきらきらと輝いて見えてきた、そんな状態をいうものであろう。
 こうした情景をふまえてこの句を読んでみると、とても気持ちのいい句であることがわかる。一湾を見おろす教会からは鐘の音が響き渡り、春のそよ風がその音を港の隅々で運んできた。過去に旅をした長崎や函館の街並みに今私は思いを馳せている。

嫁ぎたる子の部屋広し雛納め勝股あきを

 毎年雛祭の季節を迎えると、それぞれの家にはそれぞれの思いが交差する雛飾りが行われる。家に女の子がいれば成長を願って雛段を組み立て、掲句のように我が子が嫁いだあとも毎年その子の部屋で雛を飾って往時をしのぶ人もいる。
 この句は雛納めの日を迎え、過去の思い出を手繰りながら愛おしく雛を納めている光景。すべてを取り払ったあとの部屋の広さに叙情が漂う。

入学児読む下駄箱のあいうえお坪井研治

 人生の節目にある入学は多種あるが、この句にある小学校への入学は特に印象に残るものである。未知の世界に飛び込む緊張感は本人はもとより父や母の思いも手にとるように判る。
 学校の校門を入ってまず目にするのが下駄箱、我が子が覚えたてのあいうえおを口遊みながら探し出した自分の靴入れ。付き添いの親の喜びと安堵感が垣間見える一句である。