「晴耕集・雨読集」6月号 感想          柚口満 

をりをりは川面に触れて柳の芽池内けい吾

 木々の芽吹きは春の到来を知る尺度となる。枯木色の雑木山がほんのりと色づく気配を感じるとなぜか心が騒ぎ出す。
 そんな中で柳の芽、とくに枝垂れ柳が萌黄色から日々緑を濃くするさまは圧巻である。掲句にあるように川面や水面に触れる様はことに美しい。上五のをりをりは、の措辞にその柳の枝のしなさかさと風の遊びが感じられて仲春の雰囲気が溢れている。柳と言えばつい、風を詠みたくなるがそれを省略して、より以上の景を焙りだ出した秀句である。

鷹鳩と化してあそべり浅草寺山田春生

 鷹化して鳩となる、は七十二侯のひとつで二十四節気「啓蟄」の第三侯である。3月も中旬になり暖かな気候に鷹もおだやかになるということである。
 浅草寺を参拝した作者は境内で参詣客から餌の豆をねだる鳩の群れをみてついこの季語が頭を過ぎったのもしれない。面白い見立てである。外国人観光客が増えだし賑わいが戻りつつある浅草寺での嘱目吟である。

竹の秋ひとり歩きのひとり言奈良英子

 俳句には竹の秋、竹の春といった季語がある。如何にも俳句的な表現だと思う。晩春を迎えると竹の葉が黄ばんでくるが、これは筍を育てるために一時的に葉が衰えることから竹の秋と呼ばれる所以になっている。
   そんな竹林の歩道をひとりで歩き、ひとり言をつぶやいたとこの作者は胸の内を吐露している。
 春耕の8月号は早春に逝去された棚山波朗前主宰の追悼号となっていて、作者は追悼文を寄稿しているが掲句のひとり言は、前主宰へのつぶやきかとも、とふと思ったのである。

龍の字を収めて凧の威を示す小野誠一

 春の季語、凧には数多くの傍題があるが、字凧、絵凧、奴凧、連凧などが多く俳句として使われるようだ。この句は字凧を詠んでいるが。なかでも「龍」の字を配した凧を的確な写生眼で捉えた一句である。
 私も常に思っていたが、あの長方形の凧の前面に描かれた「龍」の字の座りの良さは素晴らしい。何故かと考えると龍の字の画数と形がまさに凧にぴったりとするからだ。おなじ「竜」では収まりが悪い。単なる写生を越えた秀句であると思う。

北窓を開く能登へと続く空田野倉和世
会へぬまま訃報の届く雪の果橋本速子

 一読していまは亡き棚山波朗前主宰を偲ぶ二句と理解した。春を迎えたものの春まだ浅き2月13日に波朗さんはその人生に幕を下ろされた。私と波朗さんとは会社、そして俳句の世界で誰よりも長い半世紀以上のお付き合いをさせていただいた。
 しかし世の中、コロナ禍などで病院や施設のお見舞いもままならずゆっくりとお話をしないまま逝ってしまわれた。このやりきれない思いは皆さまも共通したものであるとお察しする。
 和世さんは北窓を開いて遥かに能登へ続く空をながめ在りし日の師との思い出にひとときを過ごされた。
 また速子さんは何年もの間、ご快癒を心待ちにされていたが多摩横山に残雪が残る中に悲しい訃報に接することになってしまった。いずれの句もそのやりきれなさ、無念さが滲み出ている。

剪定の鋏の音に迷ひなし秋山淳一

   私の自宅の近くにお屋敷があり大きな庭では3月に入ると数日間庭師の剪定作業に入り見学したことがある。その庭師の鋏の音に注目したのが掲句である。
   枝を伐る鋏の音に少しも迷い、くるいのないことに感心したという。相当なベテランらしい。

和菓子屋の大きな茶釜桜餅田中せつ子

   茶釜の存在の斡旋がおおきく効いた一句 いえよう。和菓子屋さんは桜餅の季節になると、需要に合わせて餅を陳列棚にたくさん並べ、店内でも食べられるように御茶を供する。そこで活躍するのが大きな茶釜、その湯気に誘われて桜餅が食べたくなる。

里桜棚田に水のゆき渡る中嶋美貴子

 里桜とあるから人里に咲く山桜かもしれない。時あたかも田植えを前にした棚田にはそれを待つかのように田水が張られ田の面のそれぞれが光って美しい。
 棚田を囲む山裾には遅めの山桜が咲き誇り田水にその影を映す。静寂をたたえた心やすまる風景だ。

春愁や首を回せば鳴るこけし藤原正夫

 作者はこけしを集める趣味をお持ちなのか。春のひと日をこけしの手入れに没頭されている。こけしは東北地方の特産であり十の系統に分かれるとも。拭くたびに首を回せばキコキコと鳴るこけし、在りし日の旅の思い出に春の愁いを感じられた。