「晴耕集・雨読集」11月号 感想          柚口満 

厄日過ぐ断りもなく卒寿過ぐ升本榮子

 二百十日の傍題に厄日があり、9月1日ごろにあたる。この頃はちょうど稲の開花期で各農家では台風の襲来にそなえ警戒をすることになる。
 作者は厄日を過ぎた安堵感を提示しながら、中七から下五にかけて意表をついた展開を見せる俳句を作った。厄日の前後が誕生日なのであろう。なんの断りもなく卒寿までもが過ぎてしまったと吐露する。過ぎ行く己の年は誰も教えてくれないが、「断りもなく」というユーモアのある表現が楽しい。同時出句に「失念のつづくこの頃蚯蚓鳴く」があるが何のなんの春耕の女性としての大ベテラン、益々のご活躍を祈念するものである。

箸置きてよりの夜長や患者食岡村實

 この欄の原稿を書こうと準備している時に、この句の作者、岡村實さんの訃報が届いた。11月18日にご逝去、88歳の生涯だったという。春耕の重鎮として活躍され、その作風は写生のなかに細やかな忬情を蓄えた句が多く注目に値するものだった。
 いま思うと掲句は下五に患者食とあるから入院中の一句と思われる。病院の夕食は6時ごろと早い。食べ終わった秋の夜長をどう過ごそうかと思案される姿が見えて来る。きっとベッドの傍らには歳時記が寄り添っていたのではないか。ご冥福をお祈りいたします。

暮れぎはの空をあたふた蚊喰鳥髙井美智子

 蝙蝠、蚊喰鳥は不思議な動物である。空を飛ぶ哺乳類であり、初夏の頃になると蚊などの小さな昆虫を好んで食べる。蚊喰鳥と呼ぶ所以である。捕食の飛翔は日没頃とされる。
 隅田川の川辺でも散策中によく見られその群舞は、いったい何が飛んでいるのかと訝しむ人も多い。
 この句の面白いのはその姿が、なぜかあたふたと、飛んでいると観察したところ。一カ所を黒々と飛び回りながら決してぶつからない不思議さもある。その群れはひとときで消えてゆく。

顕微鏡覗きて女医の「水虫ね」沖山志朴

 某句会の兼題に水虫が出て、慌てたことがあった。意外性のある季語だが、汚く詠んでも不潔に詠んでも共感は得られない。
 沖山さんのこの句、一読して笑ってしまった。単なる請け狙いの句ではなく、女医さんと患者とのやりとりにある人間の感情の機微が感じられたからである。皮膚病かと想像したものの、ひとこと「ああ、これは水虫ね」と突き放された時の患者の思いを考えると複雑だ。女医さんの存在が見逃せない一句。

来れば直ぐ見上ぐる一樹墓洗ふ浅野文男

 墓参りの傍題には掲句の墓洗うや、古い言い方の掃苔などがある。本来、墓参りは春や秋の彼岸、故人の命日にも行われるが、季語としては「お盆」が本義とされる。
 作者の先祖伝来のお墓の近くには一本の見上げるような大樹がそびえる。来るたびにこの木を見上げるのが習慣になった。思えば何十年も我が家の墓の守り神のような存在だ。来し方のあれこれを思い出させてくれる一樹に感謝。

父軍歌我反戦歌終戦日青木洛斗

 先ごろもこの鑑賞欄で漢字だけの俳句と取り上げさせて頂いたがこの掲句も面白い視点で一句に仕立て上げられたと感心した。お父さんは先の大戦で従軍されたと伺えるし、作者は学生運動を経験されたことがわかる。軍歌と反戦歌、そして長い年月を経て今年も終戦記念日を迎えたのである。

ためらはず冷房つけよとニュース言ふ鈴木吉光

 このところの異常気象を伝えるニュースが目に付く。この句も昨年夏の猛暑を伝えるもの、ニュースキャスターは「冷房を入れて水をこまめに」と忠告する。
 そして現在は、電力が逼迫しているので、なるべく節電をといい、ためらわず暖房をとは言わない。そんな皮肉を感じつつこの句を読んで、文明の追及の果てに来るものの在り様をつくづくと感じている。

友の住む辺りにぽつと遠花火百瀬信之

 余談から入るが夏の花火大会は、7月の最終土曜日か8月の第一土曜日に開催されるのが多いという。この俳句は遥か遠くに住む友の地の花火を見ながら、しばらく会っていない友の安否に心を運ぶ。過ぎ行く夏の花火は華やかではあるが、掲句にあるように一抹の哀愁も漂うものだ。

丈高きもの減りゆきて畑の秋山本松枝

 作者は常日頃自分の畑で季節の野菜を育てていらっしゃる。トマトやキューリ、それにトウモロコシなどの背丈の高い夏野菜の収穫が終わってみれば畑全体ががらんどうとなり改めて夏の終わりを実感された様子が解る。これからは人参や牛蒡、それにイモ類などの穫り入れが待っている。