「耕人集」 四月号 感想   沖山吉和

 

探梅や侘しさ少し持ち帰り橋本速子

探梅から戻っての叙情句である。「侘しさ少し持ち帰り」の擬人法も効果的であり、連用止めも作者の工夫が生きている。内面の機微を詠った繊細な句である。
掲句では、寂しさではなく、侘しさという語を用いている。もうかなり梅も咲いているのかもしれないという期待感を持って出かけたものの、まだまだ春の気配すら感じられなかったという失望感が根底にあるのかもしれない。心の内は、微妙に揺れ動く。

常の声常の時刻に初雀杉山洋子

リフレインが効果的でリズムがよい。一句の中に動詞は一語も用いられていないが、作者の心のつぶやきがきちんと伝わってくる。体言止めにして余韻を残しているのも効果的である。
起きた時刻も、外で雀が鳴きながら飛び回っている状況もいつもと変わらない。違うのは新しい年を迎えた朝であるということ。そう思うと、気持ちも新たになる作者。去年の延長の上に今年も1年元気で頑張ろうという気持ちが伝わってくる。

黒川能漆舞台に焔映え成澤礼子

黒川は霊峰月山の麓にある。黒川能は、この黒川の春日神社の神事能として500年間、中央ではすでに滅びてしまった古い演目や演式を守り伝えてきた。昭和51年に国の重要無形民俗文化財に指定される。棚山波朗主宰の一連の作でもよく知られている。
揺らめく蝋燭の焰に映しだされる舞は、昔と変わらぬ光景である。その蝋燭の.が、漆塗りの舞台に映え、いっそう幻想的な世界を作り出す。冬の厳しい寒さの中ではあるが、作者の心はいにしえの世界に知らず知らずのうちに引き込まれてゆく。作者の地元における嘱目吟である。

風花の闇の深さに吸はれゆく吉田春月

風花には二つの意味がある。風が立って雪がちらちらと降る様子と、晴天にちらつく雪のことである。掲句においては前者の意味で使われている。
一句の眼目である「闇の深さに吸はれゆく」という擬人法、闇がまるで意志ある巨大な生き物であるような印象を与える。作者の心は虚と実の世界の境界にいるようにも感じられる。

海光の届く磯宮梅ひらく今江ツル子

「磯宮」は元々は海人族の共同神を祀った宮であり、伊勢神宮との関わりもあった。掲句の磯宮は、海の仕事に携わる人たちの海の安全を祈願して祀ったお宮という意味に理解しておけばよいであろうか。いずれにしても海岸の近くにある神社なのである。
好天なのであろう。海光で境内は明るい。その明るい境内に梅の木があり、暖かさで花が咲き始めた。荒れた日が続いたがようやく春が訪れ、今日はまた穏やかな日和であることよ、という意味である。気持ちの明るくなる具象の句である。

探梅といふ一行のさわがしき綱島きよし

数人で連れ立って出かけた探梅行の途次での俳諧味あふれる句である。一輪咲いている、鳥が飛んで行った、と一般の人から見ればどうでもいいようなことにすぐ騒ぐ俳人たち。とりわけ女性たちは物事を関心深く見て、また元気もよい。
何のことはない、作者もその騒がしい仲間の1人なのではあるが、ふと立ち止まって冷静にあたりを見回してみると本当に一行は騒がしいと気づく。周囲の人たちが振り返って見ているのもうなずける、というものである。

雪折の音に目覚むる夜更けかな髙橋喜子

近年、関東地方でもまとまった雪が降ることが多くなった。寒冷地と違って、暖かい地方の樹木は、雪に弱い。先だっての春先の雪では、筆者の住む東京郊外でもかなりの樹木が倒れたり、枝折れしたりしていた。
作者は深夜、そのような雪折れの音に目覚め、かなりの積雪になったことを知る。そして、夜が明けてからの雪掻きのこと、雪道での難儀な買い物のことなどが一瞬脳裏をよぎった。しかし、自然の力にはあらがいようもない。また眠ろうかと思うのだが、ミシミシという枝の折れる音が耳底に染みついていて眠れない。

雲の端のくれなゐ美しき女正月堀田知永

洗練された句である。対象の焦点化、用語の選択、季語の取り合わせとどれもうまくいった。余韻の香る句である。
女正月の句というと、どうしても人事的な事柄との取り合わせになってしまいがちである。しかし、作者は、雲の端という自然界のほんの一部と取り合わせ、それが見事に成功した。「美し」などの形容詞の使用は、ともすると句を説明的にしてしまいがちであるが、掲句においては、それが一句の中に見事になじんでいる。

日の差して木椅子の匂ふ久女の忌久保田喜代

直情径行型の久女は、情熱的に俳句に取り組んだが、周囲に理解されない行動も多く、「ホトトギス」も除名され、失意のうちに50歳代の若さで他界する。
久女忌は、重い内容の素材と取り合わせると、即きすぎてしまうように感じる。掲句は、日が差したときの木椅子の匂いという離れたものをさりげなく取り合わせることで、新たな俳句的空間を作り出し成功している。

誰もゐぬ子供部屋にも豆を撒く布施協一

子供たちはそれぞれ独立し、夫婦2人だけの生活を送っていらっしゃる方なのであろう。一抹の寂しさの伝わってくる句である。子供部屋は、現在子供部屋として使用しているという意味ではなく、かつて子供部屋として使っていた部屋という意味であろうと理解する。広いお宅なのであろう。
豆撒きの時期になると春耕の会員の中にも、掲句の作者と同じような寂しさや旧懐の念を抱く方も多くいらっしゃるのではなかろうか。

つくばひの水華やげり落椿澤井京

どこかの茶庭での光景であろう。椿の花がたまたま蹲の中に一輪だけ落ちている。たぶん赤い椿なのであろう。その一輪が蹲の水を染め、華やいでいるというのである。この「水華やげり」が一句の眼目である。
ちなみに、「華やげり」の「り」は助動詞で、完了した結果が続いていることを表す。この「り」が接続可能なのはサ行変格活用と四段活用の動詞である。「華やぐ」は四段活用なので、文法的にも正しく使用されているといえる。

冴返る電車遠のく音を曵き石井淑子

列車が自ら立てる音をまるで引きずってゆくかのように遠ざかる。やがてその音も消えると、また春の夜の寒さがひしと伝わってくる。聴覚の心象句である。
そこはかとない哀愁の漂ってくる極度の抑制の効いた句である。季語が働いていて、言葉の斡旋の大切さを教えてくれる。