「耕人集」 六月号 感想   沖山吉和

利休忌やにじり口より般若経広崎和代子

利休忌は陰暦2月28日である。利休は秀吉に切腹を命じられ、70歳の命を閉じる。利休の完成させた侘びの茶道は、小座敷における仏教の修行である。仏教においては、すべての人間は平等である。利休は躙口を考案したが、これも地位や身分の高低を超え、人と人とが対等になるための目的の一つとされる。
写生句でありながら、掲句は叙情味を強く持つ。現代社会を見つめ直し、質素で人としての道を正しく踏みながら、物欲や煩悩から解放され、常に平常心で生きたいものである、という作者の考えが根底にある。

よそ見してゐてかげろふに躓けり 菊井義子

虚と実を織り交ぜた飄逸の句である。心にゆとりのある人でなければ、なかなかこのように俯瞰的に自らの行動を見て、句にすることはできない。
慌ただしく毎日の生活に追われ、春になったことにも気づかずにいた。そんな私は、うっかりかげろうにつまずいて転びそうになってしまったわ、という。実際には、かげろうにつまずくことなどあり得ない。そこは心象の句として楽しく味わいたい

清明や宮の水占吉と出て 前阪洋子

水占は、京都の貴船神社が有名であるが、「宮」から想像するに近所の比較的小規模な神社の水占であろう。
技法としては、倒置法が用いられている。また、助詞止めを効果的に使って一句に余情をもたせている。難しい「清明」の季語についても、これをうまく生かし、すがすがしい季節の到来を感じさせる句にまとめ上げている。

春時雨切手の小鳥濡れて着く久米哲子

繊細かつ詩情のあふれる句である。春時雨という大景から、切手の中の一羽の小鳥へと焦点化してゆく流れが見事。
二物仕立ての句であるように思えるが、上五の春時雨のあとに助詞の「に」が省略された一物仕立ての句と考える方が自然であろう。これにより中七の「切手の小鳥」も効いてくる。春時雨の季語も生きている。

路地裏の鍛冶の匂ひや風光る真嶋陽好

嗅覚、視覚、聴覚の感覚が生かされた生気に満ちた句である。春の到来を作者は実感として感じ取って表現している。
春の訪れとともに鍛冶職も一段と忙しくなったのであろう。「匂ひ」から鍛冶の音までが聞こえてくるようである。よろずのものが生き生きと輝く春を迎えた様子や喜びが伝わってくる句である。

髪切つて弥生の風と帰り来ぬ鳥羽サチイ

若々しい感性の句である。髪の毛を切った私は、本格的な春を告げる弥生の風に乗って、軽快な足取りで帰ってきましたわよ、というのである。
中七の表現が見事である。少しだけものの見方を変えたり、表現の仕方を工夫したりすることで、平凡な題材であっても生き生きとした句に生まれ変わることを教えてくれる。

春雷のひとつ大きく転がりぬ 横山澄子

春先は、移動性高気圧と低気圧とが交互に通過することが多く、気候も変動しやすい。それに伴って雷が発生することも珍しくない。冬眠していた地中の生き物たちが目覚めるという理由でこの時期の雷を「虫出しの雷」と呼ぶこともあるという。
掲句の妙味は、「大きく転がりぬ」にある。比喩表現を用い、落雷への驚きや恐怖を冷静にかつ軽妙に表現している。

三月や黄昏永き雑木山濱中和敏

注目すべきは中七の「永き」である。ここに作者の工夫を感じる。
「雑木山」はまだ緑が繁っていない状態であろう。そこに夕方の光がいつまでも差していて、なかなか薄暮が訪れない、という心象の句と考える。季節の移ろいを繊細に感じ取ったひと時の実感なのである。

安達太良のほんたうの空桜咲く 岡島清美

掲句は、高村光太郎の『智恵子抄』の中の「あどけない話」を踏まえて作られている。あんなにも智恵子が見たがっていた故郷の安達太良山の美しい空の下に、今年も見事な桜が咲き揃いましたよ、というのである。
明るい桜の句である。しかし、病に侵され、変わりはててゆく智恵子を愛おしむ光太郎の切ない気持ちを匂わせる悲しい句でもある。

夜桜や船より仰ぐ人の波楢戸光子

世の人々が騒ぐ桜どきを少し違う立場から詠っている。水位の低い川なのであろう。ライトアップされた桜はそれはそれで美しいのであるが、作者が驚いているのは夜桜見物の人の多さなのである。
人波にもまれていると案外わからないが、距離を置いて見るとなんとその人の数の多いことか。作者は改めて日本人の桜好きの性向に驚いている。

人が皆吸ひ込まれ行く桜山 百瀬千春

「人が皆吸ひ込まれ行く」という大胆な比喩表現は、一山に咲いた桜の見事さを表現したいがための措辞なのである。
桜は毎年多くの俳人たちにより様々に詠われ続けてきた。当たり前のことを当たり前に表現してもなかなか良質の句は生まれない。ときにはこのような意表を突いた試みをすることが句に新鮮さをもたらすのである。

城跡を過ぎる雉子の尾の光り齋藤喜恵

どこの城跡であろうか。かつて絢爛たる天守閣の聳えていた場所も、今は一面荒れて草原となっていて、そこには、いろいろな生き物が生息している。今、目の前を横切って行くのは雄の雉子である。その象徴的な長い尾は日の光にあでかに光り輝いてなんとも美しい。
荒廃した城跡と、彩り豊かに輝く長い尾の雉子の動きとを対照的に配することにより、場面の状況を印象づけているのが見事である。

自転車も子らも横たふ春の庭本間ひとみ

気候も良くなって、子供たちも仲間同士で自転車での遠出をしてきたのであろう。よほど疲れたのか、自転車を倒したまま庭の草の上に倒れてしまった。その光景を眺めながら、作者は本格的な春の到来を実感しているのである。
写生句であり、自らの思いを表わしている語はない。しかし、作者の確かな思いに支えられた写生句であるということは、一読してすぐに伝わってくる句である。