「耕人集」 11月号 感想  沖山志朴

だんないは母の口癖曼珠沙華前阪洋子

 掲句は「曼珠沙華」をどこに咲いている曼殊沙華と解釈するかによって句意が違ってくる。筆者は、これを田の畔ではなく、墓所に咲く曼殊沙華と理解した。そして、事実と異なるとしたらご容赦いただくとして、「母」はすでに他界しているのではないかと考えた。墓参りの折の母の回想の句と理解すると季語の曼殊沙華も生き、句に味わいや深まりが出るからである。
 「だんない」は、「だいじない」の転じた古語。差し支えない、たいしたことはない、の意。困ったことが生じると「だんない」と言っては周囲を励ました母上だったのであろう。その言葉にどんなに勇気づけられたことか、と懐かしく思い起こしている墓前の句。

風に揺れ穂先絡まる水引草三瓶三智子

 風に吹かれて靡いた水引草の穂先が、ほんの一瞬絡まったという。ごくありふれた嘱目の句のようであるが、多くの人が見逃すような一瞬の細かな植物の動きまでを、じっと見届け、焦点化して表現しているのがよい。
 一句の中に「揺れ」「絡まる」と二つの動詞が使用されているが、「揺れ」は本来は「揺れて」である。作者は「て」の接続助詞を省略することにより、そこに一瞬の時間的な間を作っている。読者は無意識のうちにそれを了解しながら鑑賞しているので、違和感なく句意が伝わってくる。

風に乗り草に溶け行く糸蜻蛉古屋美智子

 「糸蜻蛉」は別名を「とうすみ蜻蛉」ともいう。体も翅も他の蜻蛉に比べると細く小柄である。水辺に多く生息している。
 吹いてきた風に乗り、糸蜻蛉は少し離れた草へと移った。すると緑色の小柄なその体が瞬く間に草に紛れ、どこにいるのかその存在すら分からなくなった。その決定的な瞬間にじっと作者は目を凝らす。糸蜻蛉の生き延びるための術に驚くとともに、自然のしくみの巧みさに感心しているのである。観察の行き届いた中七の「溶け行く」が掲句の眼目である。

ホルン響く千畳敷の霧晴間齊藤俊夫

 中央アルプス千畳敷カールでの嘱目吟であろう。標高二五〇〇メートルもの大自然の中で詠った、スケールの大きな句である。
 ホルンは金管楽器のホルンではなく、アルペンホルンである。もともとはヨーロッパのアルプス地方で羊の群れを集めたりする際に用いられたものである。数人で、山小屋から麓に向かって一斉に演奏したものと思われる。カールは霧が発生しやすい。この日も霧が立ち込めていたのであろうが、ホルンの高らかな音色とともに瞬く間に晴れあがった。その決定的な瞬間を捉えたところがよい。

夕空やはるかなものに渡り鳥伯井茂

 天気のよい穏やかな秋の夕暮れ。空気も澄んでいて、遠くの景色までもがよく見渡せる。その中を波打つように群れをなして渡り鳥が飛んでゆく。作者はその光景にしみじみと秋の深まりを感じている。
 中七の「はるかなものに」は、「はるかなものの一つに」の省略された表現である。山影、夕焼雲、鉄塔なども視界のうちにはあったであろう。秋の季語である渡り鳥は、鶫、花鶏、白鳥などであるが、春に渡ってくる鳥に比べて大きな群れをなすものが多い。掲句では鳥の種類までは分からないが、かなり大きな群れであったことが想像される。

霧込めの牧に呼びかふの牛の声上野直江

 高原の牧場での嘱目であろう。一面に霧が立ち込めてきて急に視界が絶たれた。すると、牧場のあちらこちらで草を食んでいた牛が、草を食むのを止め、声でお互いの存在を確かめあうように鳴き交わしはじめたではないか。
 目前の自然の急変の中での動物の行動を詠んだ句である。不安になった牛の心理状態までもが読者に伝わってくる的確な描写である。やはり、牛も普段から暗黙のうちにお互いの存在を意識しあいながら、広い牧場の中で安心して行動しているのであろう。

好き嫌ひはつきり言ふ子終戦日廣川秀子

 作者は、戦中あるいは戦後の食糧や物資の少ない時代を生きてこられた方なのであろう。子はお孫さんなのであろうか。世代の意識のずれに戸惑う気持ちが詠われている。
 国際時代を迎えた今日、学校教育においては、自らの考えをしっかりと持ち、それを適切に表現することが重視される。戦中戦後の世代は、物の少ない中で、じっと我慢して暮らすことが美徳とされてきた。それは、社会が豊かになり、物があふれる時代になっても心の底にまでしみついていて変らない。終戦日の今、作者はしみじみとそのギャップに驚いているのである。

部屋に入りぶつかり飛べる鬼やんま渋谷香織

 開けておいた窓から部屋の中へ入り込んできた鬼やんま。あちらの壁に、こちらの柱にと、ぶつかりながら必死に外へ出ようともがいている。その鬼やんまにはたしてどう対処したらよいものやらと、作者が戸惑っている光景である。
 鬼やんまは、日本にいる蜻蛉の中でも最大の蜻蛉。飛翔力もさることながら、蜂でさえも捕食するくらいの強さを持つ。寺の本堂など、広い建物の中に入ってきて悠然と飛ぶ光景はしばしば目撃されるが、掲句では、狭い部屋だったために、鬼やんまがパニック状態に陥ったのであろう。しかし、それも束の間、また広い外界へと鬼やんまは飛んで行ったに違いない。やれやれ一安心というところ。

竹伐られ風の流れの移りけり江島光代

 竹伐るは秋の季語。掲句の竹は、ある程度まとまった数の竹が伐られた竹林の状態なのであろう。かつては、籠や笊、物干し竿など日常生活の道具として、また、飾り物などの工芸品として竹は広範に用いられていた。俗に「木六竹八」といわれる。木は旧暦の6月ころ、竹を伐るのは8月ごろが栄養状態もよく、虫も付きにくいので最適であるとされている。
 下五の措辞「移りけり」に作者の言語感覚の繊細さが窺える。ついつい「変わりけり」と安易に詠ってしてしまいがちであるが、作者はこれを「移りけり」と表現した。これにより、句に空間的な広がりが生ずるとともに、詩的な趣も生まれているからである。

人よりも提灯多き盆踊小田絵津子

 過疎化の急激に進んだ地方の盆踊りの光景であろう。かつては賑やかであった盆踊りも今ではすっかり寂しくなってしまったと嘆く。中七の象徴的な表現に説得力がある。
 限界集落という言葉が聞かれるご時世である。盆踊りだけではなく、長く続いてきた伝統ある地域の行事が、いまや多くの地で見直されたり、廃止されたりしている実情がある。行事を通じて、人々は心を一つにし、励ましあったり、明日への活力を養ったり、伝統的な文化を築いたりしてきた。政府においても地方の元気を取り戻す取り組みを行っているものの、急激な産業構造の変化や、それに伴う若者人口の流失などがあって、難しい課題となっている。妙案はないものか。