「耕人集」 6月号 感想  沖山志朴

たやすくは抜けぬ地獄の釜の蓋伊藤克子

 「地獄の釜の蓋」は別名を「金襴草(きらんそう)」という。春に野原などでごくふつうに見られ、濃い紫色の小花を咲かせる。名前の由来は、草むらに咲き広がる様子が、金襴(きらん)の織物の切れ端のように見えるところからとも、漢方薬としての薬効が高く、地獄へ行く釜に蓋をするからとも、さらには、地面にべったりと這う様子からともいわれる。
 作者はただ眺めているだけではなく、実際にこの草を抜こうとしてみた。ところが地表に這うこの草はしっかりと根を張っていて容易には抜けない。まさに地獄の釜の蓋であると実感する。一風変わったこの草の名前を生かしつつ、俳諧味のある句にまとめたところが素晴らしい。  

試歩の母蓬を下げて戻りくる楢戸光子

 長く病んでいた母上なのであろう。だいぶ元気を取り戻して一人で試歩に出た。すぐ帰ってくるものと思っていたが、なかなか戻ってこない。心配しているところに、摘んだ蓬を手にして、明るい表情で戻ってきた母。それを見てほっと安心する作者。
 一句の眼目は、「蓬を下げて」にある。健康を回復して、従前の母親に戻った喜びを暗示している中七である。自然環境の恵まれた中で長く暮らし、野草摘みも習い性となっているのであろう。本来の元気を取り戻しつつあることを、作者は何よりも喜んでいる。

水温む五感ゆるりと蘇る菊地惠子

 「五感ゆるりと」の措辞が選び抜かれていて、かつ省略が効いていて、さらに象徴的であることに感心する。作者の言葉遣いのセンスの良さをうかがわせる中七である。
 寒い冬の間、人々は、行動を控え、風邪などひかぬように健康に細かい注意を払いながら、春の到来をひたすら待つ。水が温み、本格的な春がやってくると、あらゆる器官がその機能を十全に発揮し、人々は身も心もその解放感に浸る。その春の到来の喜びを五感という感覚器官を引用することで、見事に表現している。    

花の屑避けて寄り来る神の鯉山下善久

 神社の境内の池に飼われている大きな鯉であろう。中国には黄河の竜門を上った鯉が龍になり、やがて天へと上ったという伝説がある。我が国においても、古来、鯉は生命力の強い、めでたい魚とされてきた。この神社の池の鯉も龍神と関係づけて大切に飼われているのであろう。
 水面の花びらを分けつつ鯉が寄ってきたという句は多く見受けられる。しかし、掲句の鯉は、「避けて寄り来」となっている。水面に散っている花弁を避けるようにして、人影に近づいてきたという鯉。おそらく実景なのであろう。これにより、がつがつしない、風格のある神の鯉という印象が生まれてくる。作者も神の鯉が寄ってきたことを吉兆として喜んでいるのではなかろうか。

花筏おもかげ橋を潜りゆく完戸澄子

 面影橋は、東京の神田川に架かる橋。今ではごくありふれた橋に過ぎないが、明治時代までは、太田道灌の逸話にある山吹の里の地とされ、ちょっとした名所となっていた。
 その面影橋の下を、花筏が潜って流れていったというところが面白い。おそらく作者は、上流の花筏を見つけて、橋を潜り終えるまで、興味深くそれを見続けていたのであろう。しっかりと俳人としての心の目をもって物事を見ていることに注目したい。 

満ち潮に追はれて終へる磯遊び坂口富康

 おそらく一家で磯遊びを楽しんだのであろう。小さな魚や蟹を見つけては、大騒ぎする子供たち。何度も呼ばれて駆けつける父親。そうこうしているうちに波しぶきが掛かるようになってきた。上げ潮の時間となったのである。危険だ、さあ終わろう、という父の一声に終わる磯遊び。
 擬人法を用いることによって迫ってくる上げ潮の恐ろしさや緊迫感をうまく表現している。また、みんなの名残惜しい気持ちも言外に表現されている。

小綬鶏の不意の鳴き声瀬音断つ菱山郁朗

 「ちょっと来い、ちょっと来い」の聞きなしで知られる小綬鶏。早朝、森を散歩していると、同時に何羽もの鳴き声が聞かれることがある。時には、すぐ近くで突然、鋭声で鳴きだしてびっくりすることもある。
 作者が立っているのは、沢近くなのであろう。沢音がその高い声にかき消されてしまった。多分に心象としての表現とも受け取れる。小綬鶏の特徴がよく生かされた句である。