「耕人集」 11月号 感想  沖山志朴

火達磨になりしばかりの秋刀魚食む上野直江

 不漁、高値、脂の乗りが少ない、外国船の乱獲・・昨年ほど秋刀魚が話題になった年は今までにないのではないか。庶民の味として、長く食卓に上ってきた秋刀魚も、今や様変わりしようとしている。
 しかし、掲句で取り上げられている秋刀魚は、昔ながらの懐かしい太った秋刀魚。七輪で焼いたのであろう十分脂の乗り切った黒焦げの秋刀魚、それを、フーフー言いながら食べる光景である。「火達磨になりしばかり」の措辞が何ともユーモアがあって楽しい句にまとまった。 

小鳥来て賑はふ島の小学校森戸美惠子

 どこの島かは不明であるが、筆者は伊豆諸島などの黒潮に囲まれた比較的暖かい島を想像する。これらの島では、塩害や風に強い椿の木が防風林としてよく植えられる。また、自生している椿の木も少なくない。
 その椿が、10月ころになると沢山の蜜を蓄えた花を咲かせ始める。すると、目白や鵯などの漂鳥が群をなして島の上空に飛来し、島の森に消える。瞬く間に、その鳴き声で、島は賑やかになる。おそらくこの句も、そのような暖かな島の、過疎化した集落の小学校の風景なのであろう。子供たちも、その鳴き声で、季節の移ろいを感じとってゆく。

子ら帰り広き我が家に秋の声安井圭子

 「来てよし、帰ってよし」という言葉がある。孫たちが来ると賑やかになって嬉しいものではあるが、あれやこれやと気を遣ったり、一緒に動き回っていたりすると、ほとほと疲れる。帰ると寂しさの反面ほっとするのも事実。
 かつては三世代で暮らしていた広い家なのであろう。静まり返った部屋で、ほっと一息入れていると風が心地よい。そして、蟬の声にも、窓からの日差しにも、どことなく秋の気配が漂っていることに気づく。静かな日常の生活に戻った安堵感とともに、移ろいゆく季節のそこはかとない寂寥感が漂う。体言止めが効いている。

糸くづの肌に張りつく残暑かな酒井登美子

 部分の光景や動きを描くことによって、広い世界や全体の変化、様子を読者に想像させるのが、俳句の魅力の一つである。
 作者は、多くを記さないが、先ほどまで汗をかきかき、布を裁ったり、縫い合わせたりして、夢中で針仕事をしていたであろうことが想像される。アングルを変え、焦点化、省略を思い切ってすることにより、見事に季語を生かしきった句である。 

高倉の楔強むる台風裡岩山有馬

 昨年の繰り返し襲来した台風は、甚大な被害を全国各地にもたらした。多くの人が亡くなったこと、農作物の被害や家屋の流失、土砂災害など、どれをとってみても痛ましいばかりの大災害であった。
 作者は、毎年のように強い台風が通過する鹿児島県の与論島にお住まいの方。南西諸島などでは、古くから台風への備えをいろいろ工夫してきた。高倉もその一つ。湿気や鼠などの被害から穀物を守るのと同時に、台風の水害等への備えも兼ねている。通気性が良いので、今でも作業場等として使われている。柱の要所要所に楔を打ち込み、強まってきた風に備えている句である。「裡」の一字により、緊迫感が出た。南の島の風土性が出ていて興味深い。

生きのびて虫の音を聴く湯浴みかな伊藤克子

 かなり重篤な病で、長期にわたる療養の結果、ようやく回復されたのであろう。湯浴みしながら、ほっと心を解きほぐしている句である。
 「生きのびて」からは、もう助からないと、あきらめかけた時期があったことが窺える。今日、医学の進歩で、かつては治らなかった病気も、かなりの割合で治るようになった。「虫の音を聴く湯浴み」は、作者の心の底からの安堵の声なのである。「助かった命。あくせくしないで、これからは、のんびり生きていこう」、そんな独り言が聞こえてくるようである。

米櫃に熟るるを待てる通草かな布施協一

 子供のころの回想か。戦後の食糧が十分にないころ、季節が到来すると、子供たちにとっては甘い通草の実は楽しみなおやつの一つであった。まだ十分に熟していないものは、米櫃の底に入れて熟すのを待つ。
 生活が豊かになった今、通草を見つけても子供たちは振り向きもしない。しかし、自然に恵まれた土地で、戦後の少年期を過ごした世代には、桑の実、猿梨の実、山法師の実など、どれも懐かしい忘れられない味として、記憶に残っているに違いない。