「耕人集」 8月号 感想         沖山志朴

新緑の砂場にありし子の世界内田節子

 「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」(ロバート・フルガム)という有名な言葉がある。掲句は、この言葉を踏まえての作であろう。句意は、「新緑の砂場で子供たちが実に楽しそうに遊んでいる。この砂場での遊びを通して、子供たちは人生における最も大切なことを学び合っていることよ」というもの。
 「ありし」の「し」は、助動詞の「き」の連体形。過去の回想として一般的には使われるが、この用例のように、ある時点で確実に起こったと認められる事態を表す意味でも用いられたりする。この句のほかに「竹の子の伸びて少年変声期」「暮れぎはの水の耀ふ花菖蒲」などの感性の細やかな作品にも目を見張った。 

送られる言葉も無くて卒業す寒河江靖子

 いうまでもなく、新型コロナウイルス禍を詠った社会詠である。卒業式の多くは3月。この頃には、かなり事態も深刻になった。学校での授業は自宅学習となり、卒業式の実施すらも危ぶまれた。
 そのような中で、多くの学校は、来賓や保護者の参列もない質素な形態を工夫しながら児童・生徒たちの門出を祝った。例年ならば、来賓の祝辞、在校生の送辞などのお祝いの言葉が続く、半ば地域の行事としての卒業式。しかし、今年に限っては気の毒なほど簡素な卒業式よ、と同情を禁じ得ない作者である。

田植人小昼は堰に足を入れ布施協一

 田植機の入らない特別な田での手植えなのであろう。何人かの応援を得て、午前中の田植えもかなりはかどった。さて、昼休み、といったときの光景。
 用意された弁当をみんなで楽しくいただく。そのあとの束の間、汚れた足を水のきれいな堰に浸しては爽涼感を味わう。細かい様子までよく観察しながら、言葉を吟味してまとめ上げられた写生句である。「小昼」には作業の慌ただしさが窺える。

藤房の俄の風に撥ね上がり齋藤キミ子

 対象である藤の花を実に細やかに観察し、自らの発見を大切にしながら作っている句である。
 「撥ね上がり」とは実に言い得て妙。それまで吹いていた緩やかな風とは違った瞬間の強い風、その一瞬を作者は見逃さなかった。ゆらゆらと風に揺れるのではなく、房の先がまるで逆上がりでもするかのように高く跳ねるように上がったのである。作者自身の確かな目でまとめ上げられた一瞬を切り取った句である。 

見るだけで幸せになるさくらんぼ安井圭子

 芭蕉に「俳句は三尺の童にさせよ」という有名な言葉がある。これは、幼い子供たちのような純真無垢な心や、感動に敏感な心を失わないで句を作るように心せよ、という意味。細見綾子に「チューリップ喜びだけを持つてゐる」というよく知られた句があるが、この句も直感的な穢れのない感動を素直に詠ったものと考えてよかろう。
 掲句も、直感的な感動を素直に詠っている。特に、「幸せになる」は直截的な心情を表す言葉。俳句を作るときには、いろいろ表現に苦心するが、このように一瞬の感覚や感動を大切にしながら直截的に表現することにより印象的な句になることも珍しくない。  

耕運機進む先へと蝌蚪走る谷内田竹子

 中七にリアリティーが感じられる。農作業中の嘱目吟であろう。吟行に出かけたからいい句が作れるというわけでもない。日常の生活の中で常に俳句的な眼をもって物を見ていくことが、いい素材を発見することへとつながる。
 逃げ場を失った蝌蚪が両脇ではなくて、本能的に前へ前へと逃げる様に気づいたのは、大きな発見。確かな写生が、深まりのある句に繋がっている。

ぼうたんの花の散り際ただならぬ石橋紀美子

 下五の「ただならぬ」の大胆で抽象的な表現が意表を突く。しかし、作者の内面では十分に練られ、計算しつくされた5音なのである。
 うち重なった花びら、その質感、彩りの豊かさが、この一語によって見事に再現される。豪華に咲いて、散り際もまた見事な牡丹の花言葉は、「王者の風格」であるとか。散りきるまで、その王者としての風格は失われない。  

庭下駄をのそりと越えし蟇鈴木吉光

 ほう、今年も現れたか、と蟇に語り掛けつつ眺める。すると、珍しいことに動き出した蟇。何が目当てなのかわからないが、直進し、並べてあった庭下駄をゆっくりと乗り越え、さらに進む。
 「のそり」という副詞の一語が見事。蟇の様相の特徴を的確に捉えていて、生きものへの温かみの感じられる句になった。