「耕人集」 1月号 感想  沖山吉和

七人の敵なき夫の日向ぼこ深沢伊都子
 掲句の妙味は、諺をうまく引用しながら、夫君の今の生活の様子を象徴的に表現しているところにある。
 「男は敷居を跨げば七人の敵あり」。きっとご夫君も長い間、多くの商売敵や競争相手を向こうに回し、一生懸命家族のために働いてきたのであろう。今は退職して悠々自適の生活。今日も窓辺でしばしの日向ぼこ。何とも穏やかな幸せな第二の人生であることよ、とそれを傍らで見ていて肯定しているのである。

たわわなる柿を残して村消えぬ酒井登美子
 限界集落がさらに進むと、住む人のない消滅集落になる。あるアンケートによると、二割以上の市町村に消滅集落があるとのこと。掲句の集落がどこかはわからないが、特に北陸地方、四国地方に消滅集落は多いようである。
 庭の柿の木は、世話をしなくてもたくさんの実を付ける。それが熟し、夕日に映える光景は色といい、形状といい見事である。そのあざやかな柿の木と、人が住まなくなり、ひっそり閑とした集落の様子とが対比され、印象的な句になっている。

秋うらら檻の兎の立ち上がり大前美智子
 「秋日和」や「秋高し」に比べ、「秋うらら」の季語には人の心を和ませてくれるような明るい雰囲気がある。
 秋の穏やかな明るい日差しの中、檻の兎が後ろ足で立ち上がっては、何かをしきりに警戒しているというのが句意である。聞きなれない物音がしたり、周囲に何か気になる動きがあったりすると、兎は後ろ足で立ち上がり、耳を立て、あたりを見回しては警戒する。季語とのつかず離れずの関係が功を奏している。

古民家の裸電球夜寒かな尾崎雅子
 宿泊したのか訪問したのかはわからないが、夜の古民家の寒々とした様子を詠っている。今は、照明器具も開発が進み、消費電力の少ない明るいものが普及している。しかし、掲句の古民家はあえて古い時代の味わいを醸し出すために裸電球にしてあるのであろう。
 煤けた柱や天井、あちこちから入ってくる隙間風、薄暗い裸電球、人々は肩を寄せ合うようにして囲炉裏の火を囲む。しかし、暗く寒々としていながら、なぜかそこには人の心の通じ合いや温みがあるということも作者は感じているのであろう。

さみしさも杖も身のうち鰯雲江藤孜
 「杖も身のうち」とある。杖の力を借りて歩行する生活が長く続いているのであろうか。人は元気なうちはいざ知らず、体の機能が衰えてくると心も弱りがちになる。
 しかし、作者はそれを困ったものとして排除しようとは思っていない。それらを否定したり排除したりするだけでは、心の充足は得られず、暗い気持ちになるばかりである。さみしさや哀感が人生を深いものにする、杖が命のありがたさや健康であることの尊さを教えてくれる、と肯いつつ、日々の生活を満ち足りたものにしているのである。

霧深き橋の上より人の声伯井茂
 まれに見る霧の朝の光景である。霧に包まれた頭上の橋に人がいる。姿は見えないが、まるで神の声のように会話する高い声だけが朝の冷気の中に伝わってくるというのである。
 自然のもたらした幻想的な世界。作者はまるで別世界にいるような錯覚に陥っている。非日常的な世界に感動しながらも、少々戸惑っている様子も窺える。

手をつなぎ子どもかかしの学校田笹本勝三郎
 生活科等で児童が耕作している小学校の田んぼなのであろう。飾ることなく素直に写生しているのがよい。「手をつなぎ」にも新鮮さや温もりを感じる。
 いじめなどの課題を抱え、日々学校現場はその指導に苦慮している。当然思いやりの心を育てることも学校教育の大きな目標となる。この上五には学校の思いやりのある子どもを育てるという教育の方針までもが反映されているようにも受け取れる。温かみのある句にまとまった。

島の灯の海にこぼるる十三夜小田絵津子
 十三夜は、別名のちの月ともいう。十五夜のような華やかさはない。しかし、日本人はそのわずかな翳りを独特の美意識で楽しんできた。
 掲句の眼目は「こぼるる」という比喩表現にある。どこの島であるのかは定かではないが、集落が島の斜面に張り付くように点在している。その灯が海面に映っているのが遠見にもわかる。深まりゆく秋の風情やそこはかとない寂寥感も伝わってくる。

遠き日の秘めごとをふと帰り花上野邦治
 若々しい感覚の句である。句意は、冬枯れの中に咲く帰り花を見ていたら、遠い若かりし頃の秘めごとがふと懐かしく思い出されたことであるよ、というもの。 遠き日、秘めごと、帰り花から、艶っぽい話と想像できなくもない。いずれにしても人に知られたら困るような内容なのであろうが、謎めいていて興味を引く。「ふと」のあとには、「思い出す」の語が省略されているが、これは「帰り」の縁語にもなっている。作者の個性が滲み出た句である。

夕刻の椋鳥に思ひの定まらず峯尾雅文
 夕暮れになると椋鳥は決まったねぐらに集まり、いっとき騒がしく鳴き合う習性がある。その数は、多い群れでは数千羽にも達するという。排泄物や農作物の食害も問題になっていて、地域によっては駆除の対象としている。
 掲句の作者の住居の近くにもこの椋鳥のねぐらがあり、毎夕その鳴き声に悩まされているのであろう。懸案となっている事柄について結論を出したいのだが、鳴き声で考えがうまくまとまらず困り果てている、というのである。なんとも迷惑な鳥集団であることか。

峠越ゆ色を違へし花薄成沢妙子
 一見ぶっきらぼうに詠んでいるようで、実は繊細な句である。苦労してやっと峠を越えた。周囲の景色も一変したが、よく見ると道端の薄の穂の色も、峠を越える前と越えてからでは微妙に違っている、と感慨を新たにしているのである。
 確かに注意して見ると、薄の穂は株や植わっている場所、出穂の時期、光線などにより白っぽかったり、赤みがかっていたりとその色合いが微妙に違う。作者は、峠の景色だけでなく興味深く植物までをよく見て一句にまとめている。峠を越えたという安堵感からであろう。