古典に学ぶ (102) 日本最高峰の物語文学『源氏物語』世界を繙く
─ 柏木の病と死④ 柏木の垣間見─
実川恵子
女三宮のいる部屋は、御几帳も乱雑で部屋の片隅に引きのけてあって、女房たちの気配が近くに感じられて、世慣れたように見える。するとそこへ、唐猫のとても小さくかわいらしいのを、少し大きい猫が追いかけて来て、急に御簾の端から走り出た。女房たちは慌てふためいて、「それ、そこに」と立ち騒いで、ざわざわと身動きしてうろうろする様子や、衣擦れの音がやかましく聞こえる。猫はまだ人になつかないのであろうか。その猫にとても長い綱がつけてあったのを、何かに引っかけて猫のからだに巻き付いたので、逃げようとして引っ張るうちに、御簾の片端が上がり、室内が丸見えに引き上げられた。それをすぐに直そうとする人もいない。そして、この柱の傍らにいた人々も落ち着かない様子で、みんなびくびくしている状況を物語っている。
この唐猫の戯れによって、柏木の垣間見は可能となってしまった。若者たちの蹴鞠の熱中ぶりに共振する女三宮と女房たちの若さが、簾の内側と外側という境界を越えて、同世代として響きあっていたからこそ、猫が外に飛び出し、その首紐によって簾が引き上げられてしまうという狼藉もまた可能となったのである。首に付けられた長い綱によって、室内から外に逃れ、外に魅せられ、柏木に抱き取られた「猫」は、光源氏という「初老」の主人の秩序に組み込まれ、その中で生きることを求められ、それでは満たされない思いを抱く女三宮の女房たちの分身であり、さらには端近で、蹴鞠をよく見ようとして、立ったままの若き女三宮の内なる衝動と欲望を伝えるものとして機能していると思う。
また、この猫の登場は、女三宮の住む御殿の内部をあらわに見せる機会を柏木に与える役割を果たし、しかもあろうことか女三宮その人までをも見せてしまうのである。これが、のちに重大な事件を引き起こす原因となり、この場面での猫の役柄は非常に大きいと言わざるをえない。
この後、柏木の垣間見た女三宮の姿は次のように描かれる。うちとけた袿姿で立ち、華やかな色彩の紅梅がさねらしく、上に桜の庭の美しさと呼応するように高貴な女性の着る平常服である桜の細長(ほそなが)を着ている。髪は「糸をよりかけたるやう」(まるで糸をよって掛けたようになびいて)ふさやかな裾のそぎ目までが、柏木の目に、心にくっきりと刻み込まれた。また、細く小柄なからだつきで、横顔が上品で若く愛らしい。
また、猫の鳴き声で振り返った折の様子は、「いとおいらか」(おっとりして、おおような)とあり、おっとりしていて機敏な様子ではないことがわかる。この時15、6歳になっているから、どこか子供っぽい、あどけなさが多分に残っていると描かれる。
夕影の、日の光の移ろいの中に立ち尽くす女三宮のかよわく、なよなよとした若さと美しさが匂いたつような、この垣間見の描写は、『源氏物語』の数々の女君の容貌描写の中でも際立ってこまやかであり、緻密である。それは、かねてから焦がれていた柏木の下燃えの思いに火をつけるに充分な美しさであり、あでやかさであった。しかし、その美しい立ち姿は、同時に男たちのまなざしへの警戒を忘れ、簾の端が引き開けられていることに気づかない無防備な鈍感さをも表している。
はらはらと舞い落ちる桜の「乱れ」のように、この「桜」の細長を着た姫君もまた、花と同じ運命を辿っていくだろうことを、物語は先取りしているようでもある。
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